怪異と奇談 / 江戸
人が石像を産んだという訴えが出された?
2026年10月17日更新
江戸時代の随筆に、女が人の形をした石像を産み、夫が役所へ訴え出た、という記録が残っています。夫は村の名主で、訴えの文面まで書き写されています。この訴えは、本当に出されたものなのでしょうか。
AI生成によるイメージです五月十一日、安産だった。親類一同が喜んで赤子を見ると、五体はそろっているのに、石でできている。丈は一尺二寸五分、およそ38センチ。顔の上は青く、手足と腹と背は薄赤い。名主は何とも恐ろしいと書き、役所に検使を願い出ました。では、この文面はどんな形で今に伝わったのでしょうか。
01「石像を産んだ」という話は、どの本にある?
江戸の随筆に、女が石像を産んだという訴えの文面が収められています。収められているのは、『兎園小説』という本です。
『兎園小説』は、曲亭馬琴ら江戸の好事家が文政8年(1825)に毎月集まり、見聞きした珍しい話を書いて読み上げた記録です。[W05] 石像の話は第八集の第2話で、海棠庵と号した関思亮が書き留めました。題は「婦女産石像」、女が石像を産んだこと、という意味です。[S01]
気になるのは、この話が読み物として創られたのか、役所に出された書類の形をしているのかという点です。まず原文の中身を見ていきます。
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02訴状には、誰が何を書いたのか
文面は、信州佐久郡北沢村の名主、惣兵衛が申し上げる形で始まります。村には鎮守の胸形大明神があり、祀られているのは、五間四方、およそ9メートル四方の自然の石です。昔から凶事などがあるときは霊夢のお告げがあり、流行病のときに幣帛を捧げれば自然と収まるので、隣村まで挙げて鎮守として崇めている、と説明します。[S01]
続いて、惣兵衛の妻みちの話です。子がないことを嘆いたみちは、二十一日のあいだ毎晩この大明神に参籠して祈願しました。夫には一切隠していましたが、前の年に身ごもったので打ち明け、驚いた惣兵衛が医師に診せると、間違いなく懐妊でした。[S01]
十か月たっても生まれず、十二か月目の五月十一日に安産となります。親類一同が喜んで見ると、五体はそろっているものの石像で、丈は一尺二寸五分、およそ38センチ。顔の上ははっきり青みがかり、手足と腹と背は薄赤く、何とも恐ろしく思った、と書かれています。[S01]
放ってはおけないので訴え、お慈悲をもって検使を遣わしてほしいと願い出て、文面は終わります。日付は文化9年(1812)5月13日、宛先は杉庄兵衛の役所で、名主の惣兵衛と年寄の与次右衛門が署名しています。[S01、I01]
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03訴状の原本なのか、写しなのか
文面には「申し上げ候」「以上」、日付、宛先、署名がそろっていて、役所へ出す訴状の書式に見えます。ただし『兎園小説』が載せているのは、この訴状の写しです。末尾に海棠庵は「右の二条は、これを雑記の中から得た」と書き、日付は文政8年(1825)8月1日です。[S01]
訴状の日付から13年たってから、雑記を経て兎園の会に持ち込まれたことになります。どの雑記なのか、誰が写したのかは書かれていません。同じ文面は、明治に出た『百家説林』にも活字で収められました。[S01、W06]
写本の欄外には小さな字の注があり、胸形の神は筑紫の宗像の神だろうか、と述べています。[S01] この話では、役所に出す形の文面の写しが、持ち寄る話の一つとして読み上げられています。
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04別の記録では、名前も日付も違う
同じ話を伝えるもう一つの記録が、水戸藩の小宮山昌秀(楓軒)が書き継いだ『楓軒年録』です。文化8年(1811)の巻に、信州佐久郡の名主の妻の話が書き写されています。[S02]
妻は五十歳になっても子がなく、守り神の胸形大明神に「子を一人お授けください」と祈ったところ、身ごもり、「当未二月」に安産しました。ところが取り上げてみると、その子は石で、人間の姿をしていました。不思議に思った家の者と近所の者が、支配の役所へすぐに訴え出た、とあります。[S02、I02]
さらに、榊原小兵衛のところから検使が来て見届けたうえで、三月二十二日に御用番へ届けが出された、と続きます。末尾には書付を人から写した旨が添えられていて、これも人の手を渡ってきた写しです。[S02]
二つを並べると、細部が合いません。『兎園小説』の名主は惣兵衛、妻はみちで、役所は杉庄兵衛、産んだのは文化9年5月です。『楓軒年録』の名主は惣左衛門、妻は五十歳とだけあり、役所は榊原小兵衛、産んだのは「当未二月」です。この項は文化8年(未)の巻に収まるので、文化8年2月とみられます。[S01、S02]
信州佐久郡の胸形大明神を祀る村で、石の子が生まれて役所に届いたという筋は、二つの記録に共通します。ただし村名は『兎園小説』が北沢村、『楓軒年録』が北津村と読め、年も合いません。同じ話が形を変えて伝わったのか、別の話なのかは、この二つの記録だけでは決められません。
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05石を産んだ話は、ほかにもある?
石を産む話は、この訴えより千年あまり前の『日本霊異記』にあります。美濃国の未婚の女が三年身ごもり、延暦元年(782)の春に、直径五寸ほどの石を二つ産みました。土地の伊奈婆の神が占い師に乗り移り、「産んだ二つの石は我が子だ」と告げたので、家の中に垣をめぐらせて祀った、と書かれています。[W01、W02]
『古今著聞集』にも似た話があります。延久2年(1070)、上総国一の宮の託宣として、神が懐妊してすでに三年になり、若宮を誕生させる、と告げられます。海辺を探すと明珠が一つ見つかった、という話で、産んだのは神、生まれたのは珠でした。[W01、W03]
民俗学者の中山太郎は、『国体と民俗』でこれらと並べて「婦女産石像」を取り上げ、古くは人の産んだ石が神に祀られたのに、江戸の例では役人の検視を受けるところまで変わった、と述べます。中山は、一尺二寸五分の石像が腹の中に一年も入っていられるのか、産道を通れるのか、とも疑っています。[W01]
江戸の随筆を引く『日本随筆索引』の「出産」の項には、符を握って生まれること、八十歳位に見ゆる女の首を産むこと、そして「婦女産石像」が見出しとして並んでいます。石を産む話の見出しは、この「出産」の項ではこの一件でした。[W04]
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06記されたことと、起きたことの間
二つの記録から言えるのは、文化年間に「信州佐久郡の名主の妻が石像を産んだ」という訴えの文面が出回り、写されて、水戸藩士の記録にも、江戸の好事家の会にも届いたことです。訴えが実際に役所へ出されたかどうかは、写ししか残っていない以上、確かめられません。[S01、S02]
『楓軒年録』は検使が見届けたと書きますが、これも人から写した書付の一節で、検使が何を見たのかは書かれていません。石像の実体を確かめる材料は、この二つの記録にはありません。[S02]
分かるのは、この文面を書き写した記録が、少なくとも二系統残っていることです。では、その文面を原文で読んでみましょう。
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『兎園小説』第八集 第2話「婦女産石像」
作者:曲亭馬琴ほか兎園会の会員。この話の記録者は海棠庵(関思亮)
原文(該当部分)
信州佐久郡北澤村名主惣兵衞申上候村内に字入作に鎭守胸形大明神者五間四方の生石にて御座候往古より都て鄕村に凶難等靈夢之告有之又は流行之病難有之節は捧幣帛候へば自然と相除候故隣村迄擧て鎭守と崇奉り罷在候然る處私妻みち儀子無之を相歎き密に廿一日之間大明神へ每夜參籠御祈願を籠候私には一切相隱し有之去未年姙娠之分ケ前書之事共申聞候に付驚入醫師に相掛見せ候處全懷姙に相違無之由申候に付介抱仕十ケ月に及候へ共出產不仕十二ケ月に至り當五月十一日安產仕候に付親類一同歡見受候處五體相揃石像にて丈ケ一尺二寸五分面上靑ミ聢と相分り手足腹脊共薄赤く何共恐怖仕候難捨置御訴申上候何卒御慈悲を以御檢使被成下度奉願候以上
文化九年申五月十三日 信州佐久郡小澤村/名主 惣兵衞/年寄 與次右衞門/杉庄兵衞樣御役所
右兩條はこれを雜記中に得たり
文政乙酉八月朔 海棠菴記
現代語訳
信州佐久郡北沢村の名主惣兵衛が申し上げる次第です。村内の字入作にある鎮守の胸形大明神は、五間四方の自然石でございます。昔からおよそ村里に凶事などがあるときは霊夢のお告げがあり、また流行病の災難があるときは幣帛を捧げれば自然と除かれますので、隣村までこぞって鎮守と崇め奉っております。ところが私の妻みちは、子がないことを嘆き、密かに二十一日の間、大明神へ毎夜参籠して祈願を籠めたのです。私にはいっさい隠していましたが、去る未年に妊娠したので、前に書いたことどもを私に話しましたから、驚いて医師に診せたところ、まったく懐妊に相違ないと申しますので、介抱して十か月に及びましたが出産せず、十二か月になって、この五月十一日に安産しました。親類一同が喜んで見たところ、五体はそろっているが石像で、丈は一尺二寸五分、顔の上は青みがはっきり分かり、手足と腹と背は薄赤く、何とも恐ろしく思った次第です。捨て置きがたく訴え申し上げます。どうかお慈悲をもって検使をお遣わしくださるよう願い奉ります。以上。
文化九年申五月十三日 信州佐久郡小沢村/名主 惣兵衛/年寄 与次右衛門/杉庄兵衛様御役所
以上の二条は、これを雑記の中から得た。
文政乙酉八月朔 海棠庵記
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
『兎園小説』第八集 第2話「婦女産石像」
本文・目次へ戻る ↑表記・訳の注記
原文は写本の字句を採り、正字体を保ち、振り仮名を外している。村名は本文冒頭で「北澤村」、署名で「小澤村」と読め、署名の一字は「小」と「北」の区別がつきにくい。写本の欄外に小字の頭注があり、冒頭に「宗像の神ハ筑紫の名神なるか」と読める。頭注の後半は字が小さく判読できないため、訳と本文では扱わない。現代語訳は雲亭のAIによる試訳で、専門家の校閲は受けていない。「右兩條」は第1話「鑿井出火」と本話をさす。
「何とも恐怖仕候」「御検使被成下度奉願候」の言い回しに注目してください。「仕候」は「いたしました」、「奉願候」は「願い申し上げます」にあたる、役所へ出す文書らしい丁寧な言い方です。『楓軒年録』の文面と読み比べると、同じ話でも書き手によって語り方が変わることが分かります。
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出典と原典の画像
元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。
ほかの一次資料
『楓軒年録』(53巻のうち、文化8年の巻)
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原文(該当部分)
信州佐久郡北津村名主惣左衛門妻五十歳に相成候得共無子を悲み日頃天道を祈り其所ゟ守神胸形大明神は五六間四方之大石ニ而〔年ニ育候由〕此神へ子壱人さつけ給へと心願こめ候所孕身に成り当未二月安産取揚見候所其子石ニ而人間之姿ゆへ不思議ニ思ひ家内近所之者御支配へ早速訴申候榊原小兵衛ゟ検使遣し見届候上三月廿二日御用番へ届指出候右之書付〔岡田多様〕ゟ写す
現代語訳
信州佐久郡北津村の名主惣左衛門の妻は、五十歳になったが、子がないことを悲しみ、日ごろ天道に祈っていた。その土地の守り神の胸形大明神は、五、六間四方の大石である。この神に「子を一人お授けください」と心から願をかけたところ、身ごもり、この未の二月に安産した。取り上げてみると、その子は石で、人間の姿をしていたので、不思議に思い、家の者と近所の者が、支配の役所へすぐに訴え出ている。榊原小兵衛のところから検使を遣わして見届けたうえで、三月二十二日に御用番へ届けが出された。この書付は、人から写したものである。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
- 作品名:『楓軒年録』(53巻のうち、文化8年の巻)
- 著者・編者:小宮山昌秀(楓軒)
- 巻・章・話番号:文化8年(1811)の閏二月から四月の記事のあいだ。「信州佐久郡北津村」で始まる項
- 採用した版・底本:国立国会図書館所蔵 写本、請求記号 826-27、タイトル「楓軒年録 53巻」
- 翻刻提供元・URL:翻刻なし。国立国会図書館次世代デジタルライブラリーの全文テキスト(OCR)を、雲亭が画像で照合して読んだ。https://dl.ndl.go.jp/pid/2576966
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:画像62コマ(左頁)。https://dl.ndl.go.jp/pid/2576966/1/62
- 引用・再利用条件:ログインなしで画像を取得できる公開資料。利用条件ページのURLは確かめていない
表記・訳の注記
くずし字の読みは雲亭による。〔 〕内の「年ニ育候由」と「岡田多様」は字形の判読に自信がないため、訳に入れていない。「無子」は、全文検索のOCRでは「無事」だが、続く「子壱人さつけ給へ」の文脈から「無子」と読んだ。「孕身」はOCRで「幼身」、「北津村」は字形から「北津」と読んだが、村名は確定していない。「当未」は、この記事を収める巻が文化8年(辛未)のため、同年にあたるとみた。「御用番」の語義は確かめていない。現代語訳は雲亭のAIによる試訳で、専門家の校閲は受けていない。
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画像 I01 『兎園小説』(第七集・第八集を収める巻)
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昭和女子大学図書館 桜山文庫 / 写本、請求記号 桜914.5/37/4 / 55カット目の見開き。左頁の右から、題「婦女産石像」と訴状の書き出し
資料の書誌 | 該当箇所の画像
画像 I02 『楓軒年録』53巻
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国立国会図書館 / 写本、請求記号 826-27 / 62コマ、左頁
資料の書誌 | 該当箇所の画像
参考にした研究・関連文献
論文以外の参考資料
解釈と、まだ確かめられていないこと
『兎園小説』の訴状は、役所へ出す書式の文面を写したもので、原本は示されていません。日付の文化9年(1812)から13年後の文政8年(1825)に、雑記から得たものとして載せられています。『楓軒年録』は文化8年の巻に収められた書付の写しで、細部が『兎園小説』と違います。どちらの記録も、石像が生まれたことの証拠にはならず、訴えの文面がどう伝わったかを示す資料です。写本のくずし字には読みにくい箇所があり、村名などの表記は箇所によって揺れます。
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