本と記録 / 平安
源氏物語の最後の十巻は、誰が書いた?
2026年10月17日更新
『源氏物語』は、光源氏の一生だけでは終わりません。最後の十巻「宇治十帖」では、次の世代の恋が描かれます。この部分は紫式部の娘が書いたのではないか――そんな説が、昔から語られてきました。物語の雰囲気が変わると、作者も変わるのでしょうか。
画像はイメージです光源氏が亡くなったあと、物語は子や孫の世代に移ります。最後の十巻の主人公は薫で、宇治の姫君たちをめぐる物語が続きます。[W02] 読んでいると、前の巻々とは空気が違う、と感じる人もいるのです。
01「最後の十巻は娘が書いた」はどんな噂?
源氏物語は五十四帖あり、大きく三つに分けて語られます。光源氏の誕生から栄華までが第一部、晩年までが第二部で、光源氏がいなくなったあとの子孫たちの話が第三部です。第三部のうち、橋姫の巻から夢浮橋の巻までの十帖は、宇治十帖と呼ばれます。[W02]
この十帖を書いたのは、紫式部の娘の藤原賢子だという話があります。賢子は大弐三位とも呼ばれた歌人で、後冷泉天皇の乳母を務めました。近代の歌人・与謝野晶子も娘の作だと考えましたが、娘が書いたとする範囲は宇治十帖だけではありませんでした。[S01]
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02室町時代の注釈書は、どう書いている?
古い記録のひとつが、室町時代の学者の一条兼良が書いた源氏物語の注釈書『花鳥余情』です。宇治十帖の巻の説明に、「或抄」と呼ばれる注釈の言葉が引かれています。この物語は桐壺から夢の浮橋まで五十四帖、おおむね式部が書いたと思われている、という趣旨です。そのあとに「或人の申し侍るは、宇治十帖は娘の大弐三位かけり」と続き、「その証拠あきらかなり」とあります。[S02、I01]
ただ、証拠の中身は、この箇所には書かれていません。この箇所には「まことにても侍らば」、つまり「もし本当ならば」と条件がついていて、子が書きかけの歴史書を書き継いだ中国の例に似ている、と続きます。[S02]
昭和の学者の島津久基は、兼良自身もこの説を一応疑っていた、と見ています。[W04] 宇治十帖が書かれた時代から四百年以上たった記録ですから、誰が言い出したのか、どんな証拠があったのかは、この本からは分かりません。
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03晶子が言ったのは「最後の十巻」だったのか?
与謝野晶子は、昭和14年(1939)付けの『新新訳源氏物語』のあとがきで、源氏物語は「前後二人の作者の手になったもの」と書いています。その研究はここでは細かく述べられない、とことわったうえで、古くから宇治十帖が大弐三位の筆と言われてきたことにも触れています。[S01]
ところが、晶子が二人の作者の境目に置いたのは、宇治十帖の手前ではありません。前の作者の筆は「藤のうら葉」で終わり、そのあとは別の作者が書いた、というのです。光源氏の晩年を描く若菜の巻から、第二部と第三部をまとめて大弐三位の作と見たことになります。[S01、W02]
根拠として晶子は、若菜の巻から文章の組立てが違うこと、後半の歌の詠みぶりが大弐三位の歌によく似ていることを挙げます。前半と後半が書かれた時期には、二十六年の開きがあると見積もっています。[S01]
晶子は、大弐三位を独立した作者として扱っています。後半を書いた大弐三位を、偉大な文学者だと評価しています。[S01] くわしい議論は昭和3年の「紫式部新考」にある、とレファレンス協同データベースの事例は案内しています。[W01]
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04文章を数える研究では、どうなった?
1990年代には、作品の言葉の使い方を数えて、作者の違いを調べる研究が出ました。新井皓士は1997年に、仮名の頭の子音の出方を調べ、正編と宇治十帖の作者は別人とは考えられない、と結論しています。[P01]
村上征勝と今西祐一郎は1999年に、助動詞の使い方を調べています。論文の抄録によると、宇治十帖と、その前の十一巻の間には、助動詞の使い方に差が見られました。抄録は、この差が文体の違いの反映であるなら、宇治十帖に別の作者がいたという説が出る理由の一つと考えられる、と述べています。[P02]
同じ作品を数えても、二つの研究が示したものは同じではありません。新井は別人とは考えられないと結論し、村上と今西は助動詞の使い方の差を示しましたが、別人説を支持するところまでは述べていません。調べた言葉の種類も、比べた巻の範囲も違います。晶子が境目に置いた若菜の巻と、この二つの研究が比べた宇治十帖の手前とでは、位置もずれています。[P01、P02、S01]
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05同じ時代の読者は、何を書き残している?
『更級日記』は、菅原孝標の娘が書いた日記です。少女のころ、田舎から上京した叔母に、源氏物語の五十余巻を櫃に入れたまま贈られ、「后の位も何にかはせん」と思うほど読みふけった場面があります。[S03、I02]
その少し先に、物語の女君に憧れる一節があります。「光源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ」、つまり、自分もやがて夕顔や浮舟のようになるだろう、と思っていたというのです。浮舟は宇治十帖の女君ですから、日記の言い方どおりなら、少女のころの孝標女はすでに宇治十帖を読んでいたことになります。[S03]
島津久基は1936年の『源氏物語新考』で、この日記を手がかりに、宇治十帖の少なくとも半ば以上は治安元年(1021)ごろまでにできていたはずだ、と述べています。大弐三位が書き継いだのなら、物語好きの孝標女は、母と娘で完成したことに日記で触れそうなものだ、とも推測しています。[W03]
晶子も、この日記の記事を意識していました。更級日記は後年になって少女時代からのことを書き出したものなので、覚え違いがあるかもしれない、というのです。晶子の二十六年という数字も、この日記の作者が上京した年を参考にした数え方で、実際はもっと隔たりが大きいかもしれない、と書き添えています。[S01]
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06「女性一人に書けるはずがない」という見方は?
作者を疑うとき、作品への驚きだけでなく、書き手への先入観が入り込んでいないでしょうか。瀬戸内寂聴は、女性一人にはこれほどの大作を書けないはずだ、という男性研究者の思い込みを、作者複数説への批判として挙げています。これは1996年の文章での批判として、古川順弘の著書からの出版社公開の解説に紹介されています。
ただし、中世の説もすべて、そのような動機で生まれたとは断定できません。説が記録されていることと、その人がなぜ信じたのかを確かめることは別です。作者を考える際には、文章の違いを調べる議論と、女性の能力を低く見る先入観を区別する必要があります。
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07結局、どこまで言えるのか
宇治十帖を娘が書いたという話は、室町時代の注釈書にすでに載っている、古くからの言い伝えです。ただし、その注釈書の該当箇所は証拠の中身を書かず、「まことにても侍らば」と条件がついています。[S02]
近代の晶子は、境目を宇治十帖の手前ではなく若菜の巻に置き、前半の紫式部と後半の大弐三位という二人の作者を考えました。数を数える研究では、新井は別人とは考えられないと結び、村上と今西は助動詞の使い方に差を見つけましたが、別人説を支持するところまでは述べていません。[S01、P01、P02]
同じ時代の読者の孝標女は、浮舟に憧れたことを日記に書いていますが、この一節は作者の名には触れていません。同時代の記録で、娘が書いたと確かめられるものは示されていません。『源氏物語』を紫式部の作品とする理解に対して、娘作者説が同じ程度に裏づけられている、という意味ではありません。物語の調子の違いを考えることと、別人が書いたと証明することは別です。千年前の読者が物語に夢中になった気持ちを、『更級日記』の原文で読んでみましょう。
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「『新新訳源氏物語』あとがき」
作者:与謝野晶子
原文(該当部分)
私は源氏物語を前後二人の作者の手になったものと認めているが、その研究をここでこまかに述べることはできない。古来から宇治十帖は紫式部の女の大弐の三位の手になったといわれていた。
前の作者の筆は藤のうら葉で終り、すべてがめでたくなり、源氏が太上天皇に上った後のことは金色で塗りつぶしたのであったが、大胆な後の作者は衰運に向った源氏を書き出した。
よく原文を読めば文章の組立てが若菜から違っているのに心づくはずである。
更科日記にすでに浮舟の姫君のことがいわれているが、更科日記は後年になって少女時代からのことを書き出したものであるから、多少覚え違いがあるかもしれない。
前篇の紫式部は小説作家として歌人としていみじき作者であって、後篇を書いた大弐の三位は偉大なる文学者だと私は思っている。
現代語訳
私は源氏物語を、前と後ろの二人の作者の手になったものと認めているが、その研究をここで細かく述べることはできない。昔から、宇治十帖は紫式部の娘の大弐三位の手になったと言われていた。
前の作者の筆は「藤のうら葉」の巻で終わる。すべてがめでたくなり、源氏が太上天皇に準ずる位に上ったあとのことは、金色で塗りつぶしたように書かれていた。ところが、大胆な後の作者は、衰えに向かう源氏を書き出した。
原文をよく読めば、文章の組立てが若菜の巻から違っていることに気づくはずである。
『更級日記』にはすでに浮舟の姫君のことが言われているが、更級日記は、のちに少女時代からのことを書き出したものなので、多少の覚え違いがあるかもしれない。
前編を書いた紫式部は、小説家としても歌人としても優れた作者であり、後編を書いた大弐三位は偉大な文学者だと、私は思っている。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
「『新新訳源氏物語』あとがき」
本文・目次へ戻る ↑表記・訳の注記
青空文庫の翻刻は新字新仮名で、読点と句点は底本のまま。引用は5か所を空行で区切って並べた。金尾文淵堂版(1938〜39年)の原本は未読。「紫式部新考」(昭和3年)は、W01が新間進一の記述として案内する論文で、あとがき自体には言及がなく、こちらも未読。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。
「光源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ」に注目します。「こそ〜あらめ」は、きっとそうなるだろうという期待を強く言う形です。孝標女はこのあとで、「まづいとはかなくあさまし」と続けます。「はかなく」はたわいない、「あさまし」はあきれるほどだ、という意味です。少し前の「后の位も何にかはせん」と合わせて読むと、物語に夢中になった少女の気持ちが伝わります。
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出典と原典の画像
元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。
ほかの一次資料
『花鳥余情』第二十九「宇治」橋姫・椎本の項
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原文(該当部分)
或抄云、此物語はじめ桐壺より終り夢の浮橋まで五十四帖、なべては式部かきたる由を思へり。或人の申侍るは、宇治十帖は娘の大弐三位かけり、其証拠あきらか也。まことにても侍らば、(…)が史記をかきさしたるを、其子班固かきつぎたるにあひ似たるべし。
現代語訳
ある注釈にいう。この物語は、桐壺から夢の浮橋まで五十四帖、おおむね式部が書いたと思われている。ある人が言うには、宇治十帖は娘の大弐三位が書いた、その証拠ははっきりしている。もし本当ならば、(ある人が)書きかけた史記を、その子の班固が書き継いだ例に似ているだろう。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
表記・訳の注記
変体仮名と合字は通行の仮名に直し、句読点を補っている。「(…)」の部分は、史記を書きかけた人の名の字が判読できないので省いた。「大弐三位」の次の小さな字にも判読に自信がないため、昭和の学者の引用(W04)の「宇治十帖は女の大貳三位書けり」に合わせている。この箇所のあとには、大弐三位についての小字の注があり、「右衛門佐藤原宣孝の女、賢子、後一条院御乳母、叙三位也」とある。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。後冷泉天皇の乳母とする本文(S01に拠る)と、上記小字注の「後一条院御乳母」は食い違う。本文はS01のみに拠り、S02の小字注は採らなかった。また、翻字は「娘の大弐三位」としたが、W04の島津久基の引用は「女の大貳三位」で、写本の字と引用で字が違う。写本の字は草書で判読に自信がなく、「女」の可能性がある。
『更級日記』(表記は『更科日記』)
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原文(該当部分)
几帳の内に打ち臥して、ひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせん。
物語のことをのみ心にしめて、我はこのごろわろきぞかし。さかりにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじう長くなりなん。光源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
現代語訳
几帳の内に寝転がって、一冊ずつ取り出して読む気持ちは、后の位だって、これに代えられようか。
物語のことばかり心に思い詰めて、「私は今は見苦しいけれど、盛りの年ごろになったら、顔だちもこの上なくよくなり、髪もとても長くなるだろう。光源氏に愛された夕顔や、宇治の大将(薫)に愛された浮舟の女君のようになるに違いない」と思っていた心は、何よりもたわいなく、あきれたことである。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
- 作品名:『更級日記』(表記は『更科日記』)
- 著者・編者:菅原孝標女(注釈:佐佐木信綱)
- 巻・章・話番号:京に上った少女が源氏物語を読みふける場面
- 採用した版・底本:佐佐木信綱 校註『校註更科日記』東京堂書房、明治25年(1892)10月刊
- 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション pid 888758、https://dl.ndl.go.jp/pid/888758
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:39頁(コマ27)と40頁(コマ28)。https://dl.ndl.go.jp/pid/888758/1/28
- 引用・再利用条件:国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。1892年刊の注釈書で、保護期間は満了と考えられる。利用条件ページの表示は未確認
表記・訳の注記
1892年刊の注釈本の本文を引いた。旧字体と片仮名の送りは通行の字に直し、「こゝろ」も「こころ」にしている。引用は39頁の末尾と40頁の1か所で、空行で区切って並べた。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。
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画像 I01 『花鳥余情』[9]
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国立国会図書館 / 写本(請求記号 本別3-27) / コマ3
資料の書誌 | 該当箇所の画像
画像 I02 『校註更科日記』
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国立国会図書館 / 佐佐木信綱 校註、東京堂書房、明治25年(1892)刊 / コマ28(40頁)。前の場面はコマ27(39頁)
資料の書誌 | 該当箇所の画像
参考にした研究・関連文献
論文 P01 源氏物語・宇治十帖の作者問題:一つの計量言語学的アプローチ
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新井皓士 / 一橋論叢 / 117巻3号、1997年3月 / 397〜413頁
記事で参照した文献
書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF
論文 P02 源氏物語の助動詞の計量分析
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村上征勝、今西祐一郎 / 情報処理学会論文誌 / 40巻3号、1999年3月 / 774〜782頁
記事で参照した文献
書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF
論文以外の参考資料
解釈と、まだ確かめられていないこと
『花鳥余情』は室町時代の注釈書で、宇治十帖を娘の作とする言い伝えを書き留めています。この箇所には「もし本当ならば」という条件がついていて、証拠の内容は書かれていません。与謝野晶子のあとがきは昭和14年付けの文章で、二人作者説の根拠を細かくは述べないまま終わっています。数を数える研究は、調べた言葉と比べた巻の範囲がそれぞれ違うので、結論をそのまま並べることはできないのです。『更級日記』は作者が後年に書いた回想で、少女のころの読書をあとから書き出したものです。 別作者説と、他人の名義で文章を書く「代筆」は同じではありません。また、中世の別作者説が女性の創作能力への偏見から生まれたとする動機の断定は、当該史料で確認できないため本文に加えていません。
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