雲亭 日本古典図書室

ヒヨクレンリィどうする?新居のすべて

結婚したら、どちらの家で暮らす? 今なら新居探しから始める人も多いでしょう。平安時代の貴族は「夫が妻のもとへ通う結婚で、夫婦は一生別々に暮らした」と思っている人もいるかもしれません。本当にそうだったのか、平安時代中ごろの物語『落窪物語』と、その夫婦の住まいを調べた研究から確かめます。

新居について思案する婚礼誌風の平安女性
AI生成によるイメージです

「ここにはしばらく住むまい。二条の邸に住もう」。物語の中で、ある貴公子はこう言って、家来に別の邸の格子を上げさせ、掃除をさせます。[S01、I01] 妻を迎える準備です。平安時代の夫婦は、どこで新しい暮らしを始めたのでしょうか。

01平安の夫婦は、結婚後もずっと別居?

夫が妻の家を訪ねる形の結婚は、通い婚、または妻問婚と呼ばれます。[W01] けれども、夫が通う場面があることと、夫婦が一生別々に暮らしたことは、同じではありません。

ここでは、平安時代中ごろの物語『落窪物語』を手がかりにします。全四巻の物語で、作者は分かっていません。主人公は、母を亡くした中納言の娘です。父の正妻で継母にあたる北の方は、この姫君を寝殿の端にある床の低い部屋に住まわせ、その部屋の呼び名から「落窪の君」と呼ばせました。[S05]

姫君に仕えるあこぎの夫の惟成は、母が道頼の乳母という間柄で、若い貴族の道頼に姫君の身の上を話しました。話を聞いた道頼が、惟成の手引きで姫君のもとへ忍んで通うようになり、二人の結婚が始まります。[P01] 大正時代に出た注釈書『落窪物語 校註』の解説は、当時の結婚の習わしを知るのに、この物語ほど分かりやすいものはないと書いています。[S05]

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02「通う」と「一緒に暮らす」は別の話

結婚の始まりには、儀礼もありました。たとえば、新婚三日目の夜には餅を供える習わしがあったと、『落窪物語 校註』の頭注は説明しています。[S04、I03] 婚礼の手順は、姉妹記事「ゼクスィ平安版 婚礼トレンド」でくわしく紹介しています。

ここで考えたいのは、その先のことです。結婚がどう始まったかと、夫婦がその後どこに住んだかは、別の問いになります。研究では、夫婦がどこに住むかを「婚姻居住形態」と呼び、結婚の儀式とは分けて調べています。[P01]

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03妻問婚・婿取婚・嫁取婚は何が違う?

結婚の形を分けるときは、夫婦が一緒に住むかどうかと、どちらの側で暮らすかに注目します。妻問婚は、夫が妻を訪ねるだけで、夫婦は別々に住む形です。婿取婚は、夫が妻のもとに通ったり、妻のところに移り住んだりする形で、平安時代の貴族にはこの形が多かったといわれています。[W01、W06]

嫁取婚は、妻が夫のもとに移り住む形です。日本史の辞典は「嫁入婚」の項で、結婚の祝いは夫の側で行い、夫婦の寝所も夫の側の家に置かれると説明しています。この形は、武家社会の成熟とともに確立しました。[W02、W06]

嫁取婚と嫁入婚は、指している結婚の形は同じです。違うのは、どちらの立場から言うかです。嫁を迎える夫の家の側から言えば「嫁を取る」嫁取り、夫の家に入る妻の側から言えば「嫁に入る」嫁入りになります。婿取婚と婿入婚も同じ関係で、妻の家の側から言えば婿取り、夫の側から言えば婿入りです。[W02、W03]

高群逸枝の『日本婚姻史』は、『万葉集』の時代までは妻問い、平安中期ごろからは婿取り、室町期から嫁取りが定まる、と整理しています。[W01] この説には、九世紀末から十一世紀後期までの時期には、夫の側が用意した家に夫婦が住むことはまれで、家は娘が受け継いだ、という考えも含まれます。栗原弘は『落窪物語』を調べ、妻の側で暮らしたあと、夫婦で親の家を出て住むときは、夫の側が用意した家に住む例が一般的だったことを示しました。服藤早苗によると、この結果は、息子の夫婦が息子の親と同居する例がないという結果とともに、高群のこの考えへの批判になっていて、服藤もこの批判に賛成しています。[P01]

一

妻問婚(通い婚)

夫が妻を訪ねる。夫婦は別々に住む。

二

婿取婚(婿入婚)

夫が妻のもとに通ったり、移り住んだりする。平安時代の貴族に多かったといわれる。

三

嫁取婚(嫁入婚)

妻が夫のもとに移り住む。結婚の祝いは夫の側で行う。武家社会で確立した。

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04『落窪物語』の二人は、どこで暮らした?

道頼が通いはじめたころ、落窪の君は、父の中納言の邸の、あの床の低い部屋に住んでいました。道頼は、その部屋へ夜に忍んで通います。[P01、S05] 妻の家に夫が通う、物語らしい結婚の始まりです。

ところが、落窪の君は物置に閉じ込められ、そこへ老人の典薬助が言い寄ろうとします。[S05] その知らせを惟成から聞いた道頼は、「ここにはしばらく住むまい。二条の邸に住もう」と言い、惟成に、二条殿の格子を上げさせ、掃除をさせました。『落窪物語 校註』の頭注によると、この「ここ」は、道頼がそのとき住んでいた父の邸のことです。[S01、I01]

道頼は、継母たちが外出したすきに落窪の君を連れ出し、車で二条殿へ運びます。二条殿は、道頼の母の邸でした。[S01、S02、I02] こうして二人は、夫の側の家で一緒に暮らしはじめます。

ただし、この移り住みは、閉じ込められた姫君を救い出すという、物語の筋の中で起きたことです。この夫婦の例だけで、平安貴族の夫婦がみな同じ順で住まいを移したとは言えません。

巨大な月の下、空飛ぶ牛車で雲上の二条殿へ向かう架空の平安絵巻
空飛ぶ牛車で二条殿へ向かう、史実ではあり得ないAI生成のイメージです

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05新居は妻方か、夫方か、それとも独立した家か

栗原弘は、『落窪物語』に出てくる夫婦の住まいを詳しく調べています。服藤早苗の紹介によると、物語の中の結婚は妻の側に住むところから始まり、その期間がかなり長く続く例もあります。娘の夫婦が娘の親と同居する例はあっても、息子の夫婦が息子の親と同居する例はありません。妻の側で暮らしたあと、親の家を出て夫婦で別の家に住むときは、夫の側が用意した家に住む例が一般的でした。[P01]

身分によっても違いがありました。貴族の家に仕えて事務を取りしきる家司や、仕える女性である女房の夫婦は、仕えている家で結婚を始め、暮らしを支えられるようになると独立して住んだ、と栗原は整理しています。[P01]

物語には、妻の側の家も出てきます。三の巻で道頼は、落窪の君が持つ三条の家について、皇族だった母方の祖父の家が伝わったものだと説明しています。[S03] 栗原の整理は、夫の側の家に住む例が一般的だったというもので、妻の側に家がなかったという意味ではありません。

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06別れるときは、どちらが家を出る?

住まいの形は、夫婦が別れるときの形にも表れます。古代の法律である養老令には、子がないことなど七つの理由があれば、夫が妻と離婚できるという決まりがありました。[W05、W04] ただし、この決まりは中国の法律をそのまま取り入れたもので、実際には、男女のどちらからも離婚できたと、関口裕子は説明しています。[W04]

関口によると、離婚のしかたは住まいの形によって違いました。夫が通う結婚では、夫が通ってこなくなることや、妻が夫を家に入れなくなることが、別れの印になります。妻の側で同居していた場合は、夫が枕などの自分の道具を引き取ったり、妻が送り返したりしました。夫の側が用意した家に住んでいた場合は、妻がその家を出ました。[W04]

『落窪物語』にも、夫が通わなくなる別れが描かれています。道頼の仕返しで、継母の娘の四の君は、だまされて愚かな男と結婚させられます。[S05] 三の君の夫は、このことで仲間の貴族たちにからかわれたのをきっかけに三の君を捨てようと思い、通ってこない夜がだんだん多くなりました。三の君は、それを思い悩みます。[S06、S05、I02]

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07平安時代を一つの結婚像でまとめない

ここまでの話は、ほとんどが『落窪物語』という一つの物語から分かったことです。物語は作り話なので、実在の夫婦の記録とは同じに扱えません。また、上級貴族と、その家に仕える人々とでは、結婚の始め方も住まいも違っていました。[P01]

結婚の形の時代区分も、研究者によって違います。関口裕子の研究は、妻問いの典型は大化前後までとしていて、高群逸枝とは区切り方が違います。[W01] その後の研究では、十三世紀の中ごろ以降を、前の時代の名残を残しながら嫁取婚の風習がしだいに台頭した時代とみるようになり、中央の貴族の世界では婿取婚が後まで残った、と説明されています。[W03、W06] 妻問婚、婿取婚、嫁取婚という呼び名は変化をつかむための目安で、どれか一つで平安時代のすべての夫婦をまとめることはできません。[W01、P01]

今の「新居」は、夫婦と子どもだけで住む家を思い浮かべがちです。けれども、道頼と落窪の君が移った二条殿には、二十人あまりの女房が仕えていました。[S02] 『落窪物語』の二条殿は、夫婦だけでなく、仕える人々も一緒に暮らす場所でした。では、道頼が二条殿へ移ると決めた場面を、原文で読んでみましょう。

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『落窪物語』巻二、道頼が二条殿に住むと決め、落窪の君を連れ出す場面
作者:作者未詳。吉川秀雄 校註

原文(該当部分)

典薬助のことを、あさまし、ねたし、げにいかにわびしからむと、思ひやるもいとあはれなり。「ここにはしばしは住まじ。二条の殿に住まむ。いきて格子あげさせよ、きよめせよ。」とて、帯刀をつかはしつ。(中略)門だに引き出でたれば、男どもいと多くて、二条殿におはしぬ。人もなければ、いと心やすしとて、おろし奉り給うて、臥し給ひぬ。

頭注:「ここにはしばしは住まじ」について。「ここ」とは今住む父の邸をさす。

現代語訳

典薬助のことを聞いて、あきれ、しゃくにさわり、本当にどれほどつらいだろうと思いやるのも、たいそう気の毒である。「ここにはしばらく住むまい。二条の邸に住もう。行って格子を上げさせよ、掃除をさせよ。」と言って、帯刀を遣わした。(中略)門から車を引き出しさえすれば、お供の男たちが大勢いて、二条殿にお着きになった。ほかに気がねする人もいないので、たいそう気楽だと、姫君を車から降ろしてさしあげて、横におなりになる。

頭注:「ここ」は、道頼がいま住んでいる父の邸のことである。

本文翻刻

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出典・訳について

『落窪物語』巻二、道頼が二条殿に住むと決め、落窪の君を連れ出す場面

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  • 作品名:『落窪物語』巻二、道頼が二条殿に住むと決め、落窪の君を連れ出す場面
  • 著者・編者:作者未詳。吉川秀雄 校註
  • 巻・章・話番号:校註本「二の卷」、惟成からあこぎの知らせを聞いた道頼が、二条殿の支度を命じ、落窪の君を二条殿へ連れて行く場面
  • 採用した版・底本:『落窪物語 校註』明治書院、大正15年(1926)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 978199(印刷本の活字翻刻)
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/60 (102頁)、https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/61 (104頁)。雲亭が画像から読んだ
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:102頁、60コマの右頁。104頁、61コマの右頁。頭注は102頁上段
  • 引用・再利用条件:国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開、パブリックドメイン(資料の利用区分 PDM を IIIF マニフェストで確認)

表記・訳の注記

旧字体は通行の字体に直し(二條→二条、帶→帯)、ふりがな、話者を示す小字、異本注記は省いた。冒頭の「典薬助のこと」は、帯刀(惟成)が、あこぎから聞いた話として道頼に伝えた内容。「(中略)」の部分は、二条殿の支度から、継母たちが祭見物に出たすきに道頼が落窪の君を部屋から連れ出すまでの場面で、102頁の後半から104頁にあたる。2026-10-17に60コマと61コマの画像で読み合わせた。「門だに引き出でたれば」は頭注「門より引き出でさへしぬれば」に、「人もなければ」は頭注「遠慮すべき人はあらねば」に従って訳した。「帯刀」は、ここでは道頼の家来の惟成。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

「ここにはしばしは住まじ」は「ここにはしばらく住むまい」という意味です。『落窪物語 校註』の頭注は、この「ここ」を、道頼がそのとき住んでいた父の邸だと説明しています。「格子あげさせよ、きよめせよ」は、二条殿の格子を上げて開け、掃除をさせる命令です。原文の「帯刀」は惟成のことです。新しい住まいを用意する夫の姿に注目してください。

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出典と原典の画像

元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。

ほかの一次資料

『落窪物語』巻二、二条殿での暮らしと、二条殿の持ち主

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原文(該当部分)

かの二条殿には、日日にあらまほしくなりまさる。男君のもてかしづき給ふこと限なし。(中略)二十余人ばかりさぶらふ。(中略)この二条殿は北の方の御殿なり。むすめ二所、おほい君は女御、男は、太郎はこの少将、二郎は侍従にて、

現代語訳

あの二条殿では、日ごとに暮らしが申し分なくなっていく。男君が女君を大切になさることは限りがない。(中略)女房が二十人あまりお仕えしている。(中略)この二条殿は北の方の御殿である。北の方には娘がお二人いて、長女は女御、息子は、長男がこの少将、次男は侍従で、

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出典・訳について
  • 作品名:『落窪物語』巻二、二条殿での暮らしと、二条殿の持ち主
  • 著者・編者:作者未詳。吉川秀雄 校註
  • 巻・章・話番号:校註本「二の卷」、二条殿に女房が集まり、二条殿が道頼の母の邸だと語られる場面
  • 採用した版・底本:『落窪物語 校註』明治書院、大正15年(1926)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 978199
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/73 。雲亭が画像から読んだ
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:128〜129頁、73コマ
  • 引用・再利用条件:S01と同じ(インターネット公開、パブリックドメイン)

表記・訳の注記

旧字体は通行の字体に直し、ふりがな、話者を示す小字、異本注記は省いた。2026-10-17に73コマの画像で読み合わせた。ここでの「北の方」は、直前の「大将殿よりは、『少将の君の御装束、今はとくしたまへ』」の発言に話者注記「(大将北の方)」が付いていること、また、直前に「大将殿」から少将の装束の支度を頼まれる記述があり、続けて娘二人と、長男「この少将」、次男、三男が並べられることから、道頼の父である左大将の妻、つまり道頼の母と読んだ。落窪の君の継母も「北の方」と呼ばれるので、取り違えに注意。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

『落窪物語』巻三、三条の家の持ち主をめぐる、道頼と父の左大臣の会話

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原文(該当部分)

「かしこに侍る人の家に侍り。母方の祖父なりける宮の家なりける、伝りて侍るを、かの中納言はほけて、妻にのみ従ひて、情なく、ものしき心のみ侍りしかば、にくさに、この家も取らせ侍らじとてなむ。券いとたしかに侍り。」

頭注:「かしこに侍る人」について。二条殿にある落窪の君をさす。

現代語訳

「あちらにおります人の家でございます。母方の祖父だった宮の家だったものが、伝わってきているのですが、あの中納言は老いぼれて、妻の言うことばかり聞き、思いやりがなく、不愉快な振る舞いばかりでしたので、憎らしさに、この家も渡すまいと思いまして。証文はたしかにございます。」

頭注:「あちらにおります人」は、二条殿にいる落窪の君のことである。

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出典・訳について
  • 作品名:『落窪物語』巻三、三条の家の持ち主をめぐる、道頼と父の左大臣の会話
  • 著者・編者:作者未詳。吉川秀雄 校註
  • 巻・章・話番号:校註本「三の卷」、継母たちが三条の家に移ろうとし、道頼(このとき衛門督)が父に家の由来を説明する場面
  • 採用した版・底本:『落窪物語 校註』明治書院、大正15年(1926)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 978199
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/96 。雲亭が画像から読んだ。家が三条にあることは、二の卷のコマ88(OCR)の「落窪の君の伝へ得給へりける家、三条なる所にて」による
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:175頁、96コマの左頁。頭注は同頁上段
  • 引用・再利用条件:S01と同じ(インターネット公開、パブリックドメイン)

表記・訳の注記

旧字体は通行の字体に直し、ふりがな、話者を示す小字は省いた。読み合わせは2026-10-17、96コマの画像による。「ほけて」は頭注「老耄して」、「ものしき心」は頭注「おもしろからぬ心」に従って訳した。「券」は、家や土地の持ち主であることを示す証文。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

『落窪物語』巻一、新婚三日目の夜の前の場面と頭注

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原文(該当部分)

夜さりは三日の夜なれば、いかさまにせむ、こよひもちひいかでまゐるわざもがなと思ふに、又いふべき方もなければ、和泉殿へ文かく。

頭注:「三日の夜」について。新婚三日目の夜、餅を供する習なり。

現代語訳

あこぎは、夜になれば三日目の夜なので、どうしようか、今夜の餅を何とかして差し上げる手だてはないかと思うが、ほかに頼める所もないので、和泉殿へ手紙を書く。

頭注:「三日の夜」は、新婚三日目の夜。この夜に餅を供える習わしである。

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出典・訳について
  • 作品名:『落窪物語』巻一、新婚三日目の夜の前の場面と頭注
  • 著者・編者:作者未詳。吉川秀雄 校註
  • 巻・章・話番号:校註本「一の卷」、あこぎが三日目の夜の餅を気にかけ、叔母に手紙を書く場面
  • 採用した版・底本:『落窪物語 校註』明治書院、大正15年(1926)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 978199
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/26 。雲亭が画像から読んだ
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:34頁後半、26コマ(頭注は同頁上段)
  • 引用・再利用条件:S01と同じ(インターネット公開、パブリックドメイン)

表記・訳の注記

会話や心内を示す小字(あこぎの心)は省き、ふりがなも省いた。頭注の「餅を」と「供する」のあいだに小字の語が入っているが、画像では判読しきれないため、引用では省いた。頭注は「和泉殿」を「和泉守の邸なる叔母の許」と説明する。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

『落窪物語』巻一の書き出しと、校註本の解説「落窪物語論」

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原文(該当部分)

(本文の書き出し)今は昔、中納言なる人の、女あまた持給へるおはしき。(中略)時時通ひ給うけるわかんどほり腹の君とて、母もなき御女おはす。(中略)寝殿の放出の、又一間なる、落窪なる所の、二間なるになむ住ませ給ひける。(中略)「落窪の君といへ」とのたまへば、人人もさいふ。

(解説)この落窪物語は即ち継子いぢめのことを経とし、意趣がへしを緯として、面白くつづりなせる物語なり。

(解説)姫が物置の中にこめられたるを我がものにせむとて、典薬助が老体の身にて冬の夜を戸外に立ちあかして、

(解説)いかに母を憎めばとて、罪もなき娘の一人を欺いて痴漢と契らしめ、他の一人に破鏡の嘆を見せたるが如きは、血も涙もなき者の行にひとし。

(解説)当時の結婚の風習を知るに、他の物語もあれど、この物語ほどわかりやすきものはなからむ。

現代語訳

(本文の書き出し)今となっては昔のことだが、中納言である人で、娘を大勢お持ちの方がいらっしゃった。(中略)時々お通いになっていた、皇族の血を引く方の産んだ姫君で、母もいない娘がいらっしゃる。(中略)寝殿の張り出した建物の、さらに一間を隔てた、床の低い所の、二間ほどの部屋に住まわせなさった。(中略)「落窪の君と呼びなさい」とおっしゃるので、人々もそう呼ぶ。

(解説)この落窪物語は、継子いじめを縦糸とし、仕返しを横糸として、おもしろく綴った物語である。

(解説)姫君が物置の中に閉じ込められているのを自分のものにしようと、典薬助が老いた身で冬の夜に戸外で立ち明かして、

(解説)いくら継母を憎むからといって、罪もない娘の一人をだまして愚かな男と結婚させ、もう一人に夫婦別れの嘆きを味わわせるようなことは、血も涙もない者の行いに等しい。

(解説)当時の結婚の習わしを知るのに、ほかの物語もあるが、この物語ほど分かりやすいものはないだろう。

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出典・訳について
  • 作品名:『落窪物語』巻一の書き出しと、校註本の解説「落窪物語論」
  • 著者・編者:作者未詳。吉川秀雄 校註
  • 巻・章・話番号:校註本の巻頭「落窪物語論」と、「一の卷」の書き出し
  • 採用した版・底本:『落窪物語 校註』明治書院、大正15年(1926)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 978199
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/4 (解説)、https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/9 (本文の書き出し)。雲亭が OCR で読んだ
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:「落窪物語論」1〜8頁、4〜8コマ。本文1〜3頁、9〜11コマ
  • 引用・再利用条件:S01と同じ(インターネット公開、パブリックドメイン)

表記・訳の注記

旧字体は通行の字体に直し、ふりがな、異本注記、話者を示す小字は省いた。OCR で読んだ。解説のうち、物置の一節(コマ7)と「破鏡の嘆」の一節(コマ6)は、2026-10-18の照合で画像と読み合わせた。「欺いて痴漢と契らしめ」は四の君と面白の駒の結婚、「破鏡の嘆」は三の君が夫に捨てられることを指すと読んだ。「破鏡」は夫婦の別れのたとえ。物置の一節の「老体の身にて」は、OCR では「老體の身にで」と読み取られており、「にて」と直した。頭注は「落窪」を「床の低き所」、「わかんどほり」を「皇室の御血統の義」、「放出」を「母屋に続けてたて出したる屋舎」と説明する。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

『落窪物語』巻二、三の君の夫の蔵人少将が三の君のもとへ通わなくなる場面

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原文(該当部分)

蔵人少将、思ひしもしるく、殿上の君達、「おもしろの駒はいかに。(中略)」とて笑ふに、塵もつかじと思ふ心に、いと苦しとおぼゆ。もとよりもいと思ふやうにはおぼえざりしかど、いみじういたはらるるに、かかりてありつるを、これにことづけて、捨てむと思ひなりて、やうやう来ぬ夜のみ多かれば、三の君物おぼす。

現代語訳

蔵人少将は、思っていたとおり、殿上の貴公子たちに「面白の駒はどうしている。(中略)」と笑われ、少しの汚れもつけまいと思う気性なので、たいそうつらく思う。もともと三の君をそれほど気に入っていたわけではないが、手厚く世話をされるのでそのまま続けていたのを、これを口実にして見捨てようと思うようになり、だんだん来ない夜ばかりが多くなったので、三の君は思い悩む。

本文翻刻

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出典・訳について
  • 作品名:『落窪物語』巻二、三の君の夫の蔵人少将が三の君のもとへ通わなくなる場面
  • 著者・編者:作者未詳。吉川秀雄 校註
  • 巻・章・話番号:校註本「二の卷」、四の君と面白の駒の結婚のあと、蔵人少将が殿上の君達にからかわれる場面
  • 採用した版・底本:『落窪物語 校註』明治書院、大正15年(1926)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 978199
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978199/1/73 。雲亭が画像から読んだ
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:128頁、73コマの右頁
  • 引用・再利用条件:S01と同じ(インターネット公開、パブリックドメイン)

表記・訳の注記

旧字体は通行の字体に直し、ふりがな、話者を示す小字は省いた。2026-10-18に73コマの画像で読み合わせた。「面白の駒」は、四の君の結婚相手のあだ名。中略は殿上の君達の冗談の続き。「いたはらるる」は、三の君の家の側から大切に世話をされることと読んだ。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

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画像 I01 『落窪物語 校註』(巻二、道頼が二条殿に住むと決める場面と頭注)

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国立国会図書館 / 吉川秀雄 校註、明治書院、大正15年(1926)。活字本で、写本や版本の画像ではない / 102〜103頁、60コマ

資料の書誌 | 該当箇所の画像

画像 I02 『落窪物語 校註』(巻二、二条殿が道頼の母の邸だと語られる場面)

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国立国会図書館 / 同上 / 128〜129頁、73コマ

資料の書誌 | 該当箇所の画像

画像 I03 『落窪物語 校註』(巻一、あこぎが三日目の夜の餅を気にかける場面と頭注)

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国立国会図書館 / 同上 / 34頁、26コマ

資料の書誌 | 該当箇所の画像

参考にした研究・関連文献

論文 P01 『落窪物語』にみる婚姻儀礼:平安中期貴族層の結婚式

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服藤早苗 / 埼玉学園大学紀要 人間学部篇 / 6号、2006年12月 / 198(45)〜185(58)頁(縦組みのため頁が逆順)

記事で参照した文献

書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF

論文以外の参考資料

  • W01:本文・目次へ戻る ↑ 福岡県立図書館「「通い婚」という文化は、いつの時代からあったのか知りたい」、レファレンス協同データベース、登録2020年4月、管理番号 福参-1150、回答は『日本民俗大辞典 下』、関口裕子『日本古代婚姻史の研究 下』、高群逸枝『日本婚姻史』の記述を引く、https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000279920
  • W02:本文・目次へ戻る ↑ 『山川 日本史小辞典 改訂新版』(山川出版社)「嫁入婚」の項、コトバンク掲載、https://kotobank.jp/word/%E5%AB%81%E5%85%A5%E5%A9%9A-876494 、2026-10-18確認。嫁が婿方の家に引き移るか通うかする嫁入りによって成立する婚姻形式で、婚姻成立祝は婿方で行い、夫婦の寝所は婿方の家に所属する、武家社会の成熟にともなって確立した、とする
  • W03:本文・目次へ戻る ↑ 『世界大百科事典(旧版)』(平凡社)「婚姻」の項の[中世]の部分、コトバンク「嫁取婚」のページに言及として掲載、https://kotobank.jp/word/%E5%AB%81%E5%8F%96%E5%A9%9A-1433511 、2026-10-18確認。高群逸枝の段階区分はその後の研究で大幅な修正を受け、13世紀中ごろを境に、それ以前を婿取婚時代、それ以後を嫁取婚の風習がしだいに台頭した時代とみる考え方に変わった、中央貴族層では婿取婚がかなり後まで残り、武士領主層では嫁取婚への移行が比較的速やかだった、とする。この部分の執筆者名はページに出ていない。同じ項目の[古代]の部分(コトバンク「婿取婚」のページ https://kotobank.jp/word/%E5%A9%BF%E5%8F%96%E5%A9%9A-1424777 、2026-10-18確認)は、婿取婚を「婿取婚(婿入婚)」と書き、二つの語を同じ形の呼び名として並べる
  • W04:本文・目次へ戻る ↑ 『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)「離婚」の項の[歴史 日本 古代]、執筆者 関口裕子、コトバンク掲載、https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A2%E5%A9%9A-148650 、2026-10-18確認。養老令は七つの欠点があるときの夫の一方的離婚を認めるが、中国法の継受で実態とは違い、離婚は男女双方から自由に行えた。離婚の表し方は、通いの場合は男の夜離、床離と女の閉め出し、妻方居住の場合は男の調度類、とくに枕の取り戻しと女によるその送り返し、夫提供の独立居住婚の場合は妻が夫家を出た、とする
  • W05:本文・目次へ戻る ↑ 神奈川県立図書館「平安時代前期から中期にかけての離婚の手順について」、レファレンス協同データベース、登録2018年12月、管理番号 相-180005、回答は『註解 養老令』(會田範治、有信堂、1964)戸令の七出條の註、『日本法制史概要』(石井良助、創文社、1956)などを引く、https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000249283
  • W06:本文・目次へ戻る ↑ 国立国会図書館 電子展示会「本の万華鏡 第38回 ふりかえるブライダル~結婚式の歴史と文化~」第一章「今に伝わる儀式のはじまり(~江戸)」、https://www.ndl.go.jp/kaleido/38/1 (英語版 https://www.ndl.go.jp/en/kaleido/38/1 )、2026-10-18確認。平安時代の貴族の結婚は、夫が妻のもとに通ったり、妻のところに移り住んだりする婿取婚が多かったといわれる、鎌倉時代ごろには武家の間で妻が夫のもとに移り住む嫁入婚がよく見られるようになったといわれる、室町時代ごろには結婚の儀式は新郎の家で行われた、とする。参考文献に高群逸枝『日本婚姻史』、江馬務『結婚の歴史』などを挙げる
解釈と、まだ確かめられていないこと

『落窪物語』は物語で、史実の記録ではありません。「古文で読もう」の本文は、大正15年(1926)刊の吉川秀雄校註『落窪物語 校註』によるもので、服藤早苗の論文が引く『新編日本古典文学全集』の本文とは、語句が違う箇所があります。夫婦の住まいの整理は、栗原弘「『落窪物語』における家族形態について」(『文化史学』41号、1985年)の内容を、服藤早苗の論文の紹介によって書いたものです。

婚姻史の補足:高群逸枝は、妻問いと婿取りの総称を招婿婚と呼びます。関口裕子は、招婿婚が上限の分からない時代から鎌倉時代の末まで続いたと整理しています。[W01]

言葉の使われ方にも変化が見えます。服藤によると、高群は、婿取りという語が『竹取物語』や『伊勢物語』になく、『大和物語』に一例あり、『落窪物語』では何度も出てくると指摘しました。[P01]

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