本と記録 / 鎌倉・江戸
百人一首、誕生の秘密
2026年10月17日更新
百人一首の歌は、もともと住まいを飾るために選ばれたのでしょうか。鎌倉時代、宇都宮頼綱は嵯峨の山荘の建具に貼る歌を藤原定家に依頼しました。当時の部屋と、そこに飾る和歌の紙を思い浮かべながら、今の百人一首とのつながりをたどります。
画像はイメージです部屋を仕切る建具に、和歌を書いた紙を貼る。歌は本の中で読むだけでなく、住まいの中に飾って楽しむものでもありました。宇都宮頼綱が定家に頼んだのは、嵯峨にある自分の山荘のための歌でした。定家の日記の短い記録から、その依頼の様子を見てみましょう。[S01、P01]
01和歌を飾る住まいとは?
今の百人一首から思い浮かぶのは、読み札と取り札のあるかるたかもしれません。けれども、その成立を考える手がかりは、鎌倉時代の山荘の室内にあります。宇都宮頼綱が、部屋を仕切る建具に貼る和歌の紙を定家に依頼したのです。[S01、P01]
当時の「障子」は、現在の白い紙を張った障子だけを指す言葉ではありません。部屋を仕切る建具を広く指しました。歌を貼る建具は、暮らしの空間を区切るとともに、詩歌を目で楽しむ場所にもなります。[W02、W03]
山荘の持ち主、歌を選ぶ人、紙に書く人は、それぞれ分けて考える必要があります。まず、定家本人の記録を読んでみましょう。
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02日記には、何と書いてある?
『明月記』の文暦2年(1235)5月27日条で、定家は次のように書いています。趣旨を現代語にすると、次のとおりです。
「私はもともと文字を書く心得がない。それでも、嵯峨中院の障子の色紙形は、ほかならぬ私に書いてほしいと、あの入道が熱心に頼んできた。たいへん見苦しいことだが、筆を取って送った。昔からの人の歌を一首ずつ、天智天皇から家隆・雅経まで」[S01、I01]
「あの入道」は、定家の息子・為家の舅にあたる宇都宮頼綱で、出家した後の名を蓮生といいます。[P01、W04] 嵯峨中院は、蓮生が嵯峨に持っていた山荘です。[P01]
この記事には、「百人一首」という名も、歌の数の100も出てきません。書かれているのは、障子に貼る色紙形に、昔の人の歌を一人一首ずつ書いて送ったことと、並びが天智天皇から始まって家隆と雅経のあたりまで続くことです。[S01]
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03建具に貼る「色紙形」
ここでいう「色紙形(しきしがた)」は、和歌や漢詩を書いて、屏風や建具に貼る四角い紙です。現在のサイン用の厚い色紙を、そのまま思い浮かべると違ってしまいます。絵に合わせて詩歌を添える使い方もありました。[W02]
部屋を仕切る建具に歌があれば、座った場所から眺めたり、訪れた人と歌を話題にしたりできます。和歌が室内の景色の一部になる、と想像すると、その用途が分かりやすくなります。これは空間を理解するための説明で、頼綱の山荘での過ごし方そのものを記録から再現したものではありません。
『明月記』は、山荘の建具に用いる色紙形についての依頼を記しています。ただし、建具の具体的な形や歌の配置までは分かりません。住まいの復元写真を参考にする場合も、頼綱の山荘そのものの復元とは区別します。[S01、W02、W03]
当時の住まいの空間を思い浮かべる参考に、いつきのみや歴史体験館の写真(観光三重)を見ることができます。平安時代の寝殿造をモデルにした施設で、鎌倉時代の頼綱の山荘を復元したものではありません。
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04それは、今の百人一首と同じもの?
そのときの歌の集まりが、現在の百人一首と同じ内容だったのかは、議論があります。きっかけは、1950年代の初めごろに知られるようになった『百人秀歌』です。[P01、W01] 冷泉家時雨亭文庫の本は、端書きに「嵯峨山庄色紙形」と記しています。[P01] 『百人一首』の草稿に当たる本と見る説もあります。[P02]
二つの本は、とてもよく似た内容です。違いは、人数と歌の数のほか、源俊頼の歌、歌の並び順、家隆の官位の書き方にもあります。『百人秀歌』は101人101首で、後鳥羽院と順徳院の歌がなく、一条院皇后宮、国信、長方の3人の歌が入っています。『百人一首』は100人100首で、最後の2首が後鳥羽院と順徳院の歌です。[P01、P02]
手がかりになるのが、家隆の呼び名です。『百人秀歌』は「正三位家隆」、『百人一首』は「従二位家隆」と書きます。家隆が従二位になったのは同じ年の9月10日で、5月27日の日記の時点では正三位でした。そのため、『百人一首』の「従二位家隆」という書き方は、9月より後でなければできません。[P02]
一『百人秀歌』
101人101首。後鳥羽院と順徳院の歌はなく、家隆は「正三位」。端書きに「嵯峨山庄色紙形」とある。
二『百人一首』
100人100首。後鳥羽院と順徳院の歌で終わり、家隆は「従二位」。
三『明月記』の記事
天智天皇から家隆・雅経までと書くだけで、歌の数も書名も出てこない。
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05同じ一行を、研究者は二通りに読む
日記の「天智天皇から家隆・雅経まで」という書き方をめぐって、研究者の読みは分かれています。樋口芳麻呂は、『百人秀歌』の最後が入道前太政大臣(西園寺公経)の歌で、雅経の歌は97番目にすぎない点に目を付けました。『百人秀歌』で色紙を書いたなら、日記には公経の名を書くはずだ、というのです。[P02]
樋口は、定家があえてぼかして書いたと見ます。色紙は『百人一首』で書かれ、最後が両院の歌になることを日記に書くのを避けた、という説明です。[P02] これに対して久保田淳は、色紙は今の『百人秀歌』を土台に書かれ、『百人一首』になったのはその後だと、推論として述べています。[P01]
久保田は、定家が撰者だという見方は世間の通念であって、研究者の間では定説として確定していないとも書いています。[P01] 図書館の調べもの事例が引く『日本史大辞典』も、1235年成立か、としたうえで、異説が多いと説明しています。[W05]
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06かるたになったのは、ずっと後
かるたの形になったのは、定家の時代よりずっと後です。図書館の調べもの事例では、辞典類の記述として、歌かるたは江戸時代の初めに考案されたとされています。[W06] 『日本大百科全書』の「かるた会」の項は、貞享年間(1684〜88)に京都の松葉屋が厚紙に木版で歌を刷ったかるたを売り出し、それで一般に広まったと説明しています。[W04]
江戸時代には、百人一首は版本としても出回り、書の手本や教養書として読まれました。一対一で取り合う今の競技かるたの形は明治になって生まれ、1904年(明治37)に新聞『萬朝報』の主催で第1回の競技会が開かれています。[W04]
山荘に飾るための歌の集まりと、後世に広まった歌集、そして遊びとしてのかるた。この三つを分けると、百人一首が長い時間をかけて親しまれてきたことが見えてきます。
依頼を受けた定家が何と書き残したのか、日記の一節を原文で読んでみましょう。[S01]
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『明月記』文暦2年(1235)5月27日条(同書は年を「嘉禎元年」の項に収める)
作者:藤原定家
原文(該当部分)
予本自不知書文字事、嵯峨中院障子色紙形、故予可書由、彼入道懇切、雖極見苦事、愁染筆送之、古来人歌各一首、自天智天皇以来、及家隆雅経
現代語訳
私はもともと文字を書く心得がない。それでも、嵯峨中院の障子の色紙形は、ほかならぬ私に書いてほしいと、あの入道が熱心に頼んできた。たいへん見苦しいことだが、筆を取って送った。昔からの人の歌を一首ずつ、天智天皇から家隆・雅経まで。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
『明月記』文暦2年(1235)5月27日条(同書は年を「嘉禎元年」の項に収める)
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- 作品名:『明月記』文暦2年(1235)5月27日条(同書は年を「嘉禎元年」の項に収める)
- 著者・編者:藤原定家
- 巻・章・話番号:国書刊行会本の第3巻、五月廿七日(己未)の条
- 採用した版・底本:国書刊行会 編『明月記』第3、国書刊行会、1912年(活字本。同書の底本は確認していない)
- 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション pid 991255、https://dl.ndl.go.jp/pid/991255/1/235
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:465頁、上段の末尾から下段の冒頭、235コマ
- 引用・再利用条件:国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開、パブリックドメイン(IIIFマニフェストの Access Restrictions が PDM)
表記・訳の注記
活字本の旧字体(來、經など)を通行の字体に直した。原文は「見苦事」と「愁染筆送之」の間に句読点がなく、雲亭が読点を補った。「愁染筆」の「愁」は活字本の字で、久保田淳(P01)と樋口芳麻呂(P02)が引く翻刻『明月記』の本文は「染筆」とし、この字を含まない。「故予可書由」の「故」は、ここでは「ことさらに」の意に取り、「ほかならぬ私に」と訳した。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。この日の記事はさらに続くが、引用したのは百人一首に関わる部分だけ。
「不知」は「知らない」、「見苦事」は「見苦しいこと」です。定家は自分の書を「見苦しい」と言いながら、頼んだ入道の「懇切」さも書き添えています。「各一首」は一人に一首ずつ、「自天智天皇以来、及家隆雅経」は、並びの始まりと終わりを示す言い方です。「百」という数字がどこにも出てこないことにも注目してください。
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出典と原典の画像
元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。
原典の画像を開く
画像 I01 『明月記』第3
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国立国会図書館 / 国書刊行会、1912年。活字本で、定家の自筆本の画像ではない / 465頁、235コマ(見開きの左頁)
資料の書誌 | 該当箇所の画像
参考にした研究・関連文献
論文 P01 後鳥羽院の『時代不同歌合』と藤原定家の『百人秀歌』
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久保田淳 / 日本學士院紀要 / 76巻1号、2021年 / 1〜19頁
記事で参照した文献
書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF
論文 P02 定家の朧化表現 : 『百人一首』の成立時期について(子午線)
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樋口芳麻呂 / 日本文学 / 33巻11号、1984年 / 84〜85頁
記事で参照した文献
書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF
論文以外の参考資料
解釈と、まだ確かめられていないこと
『明月記』は定家の日記です。この記事で引いた本文は、明治末から大正にかけて刊行された活字本によるもので、近年の翻刻(久保田淳の論文の引用)とは字句に違いがあります。『百人秀歌』は百人一首の草稿に近い本と見られていますが、二つの本の関係や、色紙形に何が書かれたかは、研究者の間で一致していません。かるたの成立についての説明は、辞典類による概要です。
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