雲亭 日本古典図書室

虚無僧の掟は、徳川幕府が定めた?

時代劇の虚無僧は、深い編笠をかぶり、尺八を吹きながら日本中を自由に歩きます。虚無僧に変装した隠密の話もあります[W02]。解説動画などで聞くのは、これは徳川家康が与えた掟書のおかげ、という話です。では、虚無僧の掟は、本当に徳川幕府が定めたものなのでしょうか。

関所で文書を示す虚無僧と確認する江戸時代の役人
AI生成によるイメージです

江戸の文人が集まる会で、ひとりが虚無僧の掟書を書き留めて披露しました。冒頭には「日本国中の虚無僧は、勇士や浪人が一時の隠れ家とする宗派である」とあり、末尾には三人の名が並びます。これだけ立派な形をそなえた文書が、なぜ疑われているのでしょうか。

01虚無僧は家康のお墨付き、という噂

虚無僧は、尺八を吹いて托鉢をして歩く普化宗の僧です[S02]。髪を剃らず、顔が隠れるほど深い天蓋(編笠)をかぶります。

解説動画などでは、江戸幕府が虚無僧に特権を与えていたと紹介されます。根拠として挙げられるのが、慶長19年(1614)に徳川家康が与えたとされる掟書です。ここには、虚無僧が日本中を自由に行き来してよいと書かれています。

この掟書を、江戸時代の人が書き写した記録が残っています。まず写しを読んでみましょう。

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02『兎園小説』は、何を根拠に書いているか

『兎園小説』は、1825年(文政8)に始まった江戸の文人の会、兎園会で披露された話を集めた本です。第四集の「虚無僧定法」は、文宝堂が書き留め、文政8年4月1日の日付をつけています。[S01]

写された掟書は十七か条です。条文のあとには「慶長十九年戊寅正月」の日付があり、本多上野介、板倉伊賀守、本多佐渡守の三人の名が並びます。最後は「右上意之趣相渡申候間」、つまり将軍の意向をこの文書で渡す、という言葉で結ばれています。[S01、I01]

日付、三人の連署、将軍の意向。この文書が自分の根拠として掲げるのは、この三つです。一方、文宝堂は、この掟書をどこから書き留めたのか、本物かどうかについては書いていません。続けて一月寺が出す「本則」(虚無僧の免許状)の写しと、尺八の曲名二十一曲が載っています。[S01]

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03掟書には、何が書いてあるか

条文を読むと、虚無僧に与えられた特権と、守るべき決まりが入り交じっています。たとえば、虚無僧は托鉢のとき刀や脇差を持ってはならず、一尺(約30センチ)以下の刃物だけを懐刀として許されます。道中でも宿でも、天蓋をとって人と顔を合わせてはなりません。[S02]

一方で、敵を尋ねて諸国を回る勇士の道だからと、芝居小屋や渡し舟まで「往来自由」です。本則を見せれば関所や番所を通れる、という条もあります。虚無僧になれるのは武士で、武士以外の者に尺八を吹かせてはならない、とも書かれています。[S01、S02]

時代劇の隠密の虚無僧に近い言葉もあります。進士慶幹は、慶長19年の「東照宮御定目」とよばれる法度に「虚無僧は隠密御用などを命じられる」という趣旨の文言があると書きます。『兎園小説』の写しには、この文言は見当たりません。[W02、S01]

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04「慶長の掟書」は、疑われている文書

この掟書について、『国史大辞典』は、慶長19年に徳川家康が虚無僧に対して制定したと伝えられる、と書きます。「伝えられる」という言い方で、確かな制定とは断言していません。辞典が挙げるのは掟書11か条と虚無僧法度20か条で、『兎園小説』の十七か条とは数が違います。同じ文書かどうかは、ここからは分かりません。[W01]

進士慶幹は、慶長19年の「東照宮御定目」を「偽法度」と呼び、虚無僧がこれを盾に、不入権や身分的な特権を主張したと説明します。屋代浩二郎の評価は、山梨の虚無僧を調べた本にあり、世間に知られる「虚無僧御掟」一般について、ほとんどが創作だというものです。長谷川佳澄は、近江国の虚無僧取締りを調べた論文で、家康の関東入国の際に発行されたとする掟書(慶長掟書)を「作成した」と書きます。[W02、W01、P01]

年代の説明もそろっていません。家康が関東に入ったのは1590年です。『徳川禁令考』に収められた掟書の題は「御入国之砌被仰渡候御掟書」で、『兎園小説』の写しは日付を慶長19年とします。長谷川は、写しごとに文言が少しずつ違うことも注記しています。[P01、S01]

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05幕府が定めた虚無僧の掟は、いつのもの?

では、幕府は虚無僧に何も定めなかったのかというと、そうではありません。『国史大辞典』によると、幕府は1677年(延宝5)、一月寺と青梅の鈴法寺に命じて、十七か条の寺掟「普化宗門之掟」を作らせました。屋代は、この延宝5年の掟を、寺社奉行が出した正真正銘の掟と呼びます。[W01]

その後も、幕府は取り締まる側に立ちます。1759年(宝暦9)には触れが出て、本則を授ける相手が仕官の者に限られ、百姓や町人には授けないことになりました。[W03]

虚無僧の特権を保証したように見える掟書は、幕府が与えたものというより、普化宗の側が自分たちの立場を守るために掲げた文書だった可能性があります。進士慶幹が、虚無僧はこの法度を盾にして特権を主張したと説明していることからの読みです。[W02]

ただし、長谷川によれば、虚無僧は18世紀半ば以降、武士だけが入門を許され、武士身分と位置づけられました。それより前の一月寺は、武士と町人を区別せずに本則を授けていたと、レファレンス協同データベースの回答は伝えます。[P01、W03]

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『兎園小説』第四集「虚無僧定法」(本文の見出しは「虛無僧御定」)
作者:文宝堂が書き留めて披露(識語は「文寶堂しるす」、文政8年4月1日の日付)。兎園会の記録

原文(該当部分)

一 日本國中虛無僧之儀は、勇士浪人一時之爲隱家之不入守護之宗つゝ、依之て下々家臣諸士之席に可定之條、可得其意事。

慶長十九年戊寅正月 本多上野介 在判 板倉伊賀守 在判 本多佐渡守 在判

右上意之趣相渡申候間奉拜見、會合之節能々爲申聞可爲守者也。

現代語訳

一 日本国中の虚無僧というものは、勇士や浪人が一時の身の隠れ家とし、役人が立ち入らない守護のもとにある宗派である。それゆえ、下々にあっても家臣や諸士の席次に定めるべきことを、よく心得ておくこと。

慶長十九年戊寅正月 本多上野介 在判 板倉伊賀守 在判 本多佐渡守 在判

右の上意の趣旨を相渡すので、拝見したうえ、会合の折によくよく言い聞かせて守らせるように。

本文翻刻

ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。

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出典・訳について

『兎園小説』第四集「虚無僧定法」(本文の見出しは「虛無僧御定」)

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  • 作品名:『兎園小説』第四集「虚無僧定法」(本文の見出しは「虛無僧御定」)
  • 著者・編者:文宝堂が書き留めて披露(識語は「文寶堂しるす」、文政8年4月1日の日付)。兎園会の記録
  • 巻・章・話番号:第四集 第11話
  • 採用した版・底本:昭和女子大学図書館 桜山文庫本(写本)。雲亭の本文ライブラリ toen-04-11(AI試訳、専門家未校閲)
  • 翻刻提供元・URL:雲亭による翻刻。画像は昭和女子大学図書館デジタルアーカイブ https://www.ro-da.jp/swu/contents/3168
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:3168 の64カット目左ページ3行目に見出し、掟書は67カット目右ページの署名まで。67〜69カットが本則の写しと印形、69カット目左ページが尺八曲名、70カット目右ページが識語
  • 引用・再利用条件:画像の利用条件は未確認のため、画像はリンクのみ

表記・訳の注記

全十七か条のうち第一条と、署名、結びの文を引いた。「守護之宗つゝ」は写本も活字本系テキストも同じで意味が通りにくく、訳は文意を補った。「本多上野介」は写本の読みで、活字本系テキストは「本田上野介」とする。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

冒頭の「勇士浪人一時之爲隱家之不入守護之宗」は、虚無僧を勇士や浪人の仮の隠れ家と定義する一文です。末尾の「右上意之趣」は、この文書が将軍の意向を伝える形をとっていることを示します。どちらも、この掟書が自分で自分の権威を宣言している箇所です。

わからない言葉は、共通の単語帳へ →

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出典と原典の画像

元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。

ほかの一次資料

『兎園小説』第四集「虚無僧定法」の掟書、第七条から第九条

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原文(該当部分)

一 虛無僧托鉢に罷出、或は道中宿往來所々何方にても、天蓋を取り人に面を合せ申間敷事。

一 虛無僧托鉢之節、刀脇差幷武具之類、一切爲持申間敷候。總而いかつかましきなり形致間敷候。尤一尺下之刄物爲懷刀と差免可申事。

一 虛無僧勇士之道、敵體尋𢌞國抔之義も有之、依而芝居渡舟等に至迄、往來自由に差免之事。

現代語訳

一 虚無僧が托鉢に出たとき、あるいは道中や宿場、往来のどこであっても、天蓋を取って人と顔を合わせることは禁止である。

一 虚無僧が托鉢するときは、刀や脇差、武具の類は一切持たせてはならない。総じて、いかめしい姿は慎むこと。ただし一尺以下の刃物は懐刀として許可する。

一 虚無僧には勇士の道として敵を尋ねて諸国を廻るという事情もあるので、芝居や渡し舟などに至るまで、往来は自由に許可する。

本文翻刻

ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。

出典・訳について
  • 作品名:『兎園小説』第四集「虚無僧定法」の掟書、第七条から第九条
  • 著者・編者:S01と同じ
  • 巻・章・話番号:第四集 第11話
  • 採用した版・底本:S01と同じ
  • 翻刻提供元・URL:S01と同じ
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:64〜67カット目(S01の範囲内)
  • 引用・再利用条件:S01と同じ

表記・訳の注記

S01と同じ。ほかに、関所や番所は本寺の本則を見せて通る条(第十五条)、武士以外に尺八を吹かせない条(第三条)を本文で要約した。

原典の画像を開く

画像 I01 『兎園小説』第四集(桜山文庫本)

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昭和女子大学図書館 / 写本 / 3168の64カット目左ページから70カット目右ページ

資料の書誌

該当箇所の画像は未確認です。

参考にした研究・関連文献

論文 P01 近江国における虚無僧取締り

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長谷川佳澄 / 千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 240(記録史料と日本近世社会 Ⅵ) / 240号、2012年3月28日 / 24〜51頁

記事で参照した文献

書誌・DOI | 本文PDF

論文以外の参考資料

  • W01:本文・目次へ戻る ↑ 国立国会図書館 レファレンス協同データベース、山梨県立図書館「延宝5(1677)年に出された虚無僧の掟の原文を見たい。」(事例ID 1000139823、2013年)。回答が引く『国史大辞典』第12巻「普化宗条目」、屋代浩二郎『甲州の虚無僧』38〜42頁の記述を、この回答を通して確認した。https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000139823
  • W02:本文・目次へ戻る ↑ 同 広島県立図書館「隠密(幕府の密使)たちは,幕府が一月寺に対して許可をもらって虚無僧になっていたのか。」(事例ID 1000270159、2019年)。回答が引く進士慶幹『江戸時代武士の生活』246〜247頁の記述を、この回答を通して確認した。https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000270159
  • W03:本文・目次へ戻る ↑ 同 広島県立図書館「下総にある普化宗の総本山一月寺の許可がないと,虚無僧になれなかったと言うのは本当か。」(事例ID 1000256324、2019年)。回答が引く保坂裕興「一八世紀における虚無僧の身分形成」(『部落問題研究』105号、1990年)53頁の記述(1759年の触れ。触れの前は一月寺が武士と町人を区別せず授けていたこと)を、この回答を通して確認した。1759年の触れの根拠はこの保坂の記述だけである。回答が引く高埜利彦ほか編『新体系日本史15 宗教社会史』394頁は、1770年代に本山末寺体制が完成したとする記述で、触れの根拠にはしない。https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000256324
解釈と、まだ確かめられていないこと

『兎園小説』は江戸の文人の会で披露された話を集めた写本で、文宝堂は掟書を書き留めた人であり、その出どころを書いていません。事典の「伝えられる」、進士慶幹の「偽法度」、屋代浩二郎の「創作」は、強さが違う言い方です。この記事は三つを区別して引きました。『国史大辞典』と研究書の記述は、レファレンス協同データベースの事例に引かれた文章で確かめたものです。

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