事件と人物 / 平安
紫式部の本名は「香子」!?
2026年10月17日更新
『源氏物語』を書いた紫式部。その「紫式部」が本名ではないとしたら、家族は彼女を何と呼んだのでしょう。「藤原香子」という名前の手がかりは、同時代の日記にあります。ただし、名前が載っていることと、それが紫式部だと分かることは別です。
画像はイメージです寛弘4年(1007)の正月二十九日、藤原道長は日記に、女官の人事をこう書き留めました。大意は、掌侍という女官の役職に任じることになり、藤香子を任命せよとのことだった、というものです。この香子という人が紫式部ではないか、と考えた研究者がいます。日記の一行から、そこまで言えるのでしょうか。
01「まひろ」は本名なの?
紫式部という名は、宮仕えをしていた女性が仕事で使った呼び名で、女房名といいます。はじめは「藤式部」と呼ばれていたとされ、父の藤原為時が式部丞という役職だったことに由来する、と古典文学の事典は説明しています。[W01]
ドラマの主人公の名として使われた「まひろ」という名を本名として伝える記録は、事典類には出てきません。堺市立中央図書館がこの疑問を調べたときも、『源氏物語ハンドブック』が本名や生没年さえはっきりしないと書いている、という結果でした。[W02]
平安時代の女性は、家系図に名前が書かれないことが多く、実名が後世に残りにくかったと、時代考証の事典は説明しています。[W02] それでも「香子」という名が挙がるのは、ある日記に、その名の女官が出てくるからです。[S01、S02、W01]
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02日記にある「香子」は、紫式部なの?
香子説を唱えた角田文衛は、日記に残る女官の人事と、『紫式部日記』の記述を結びつけて考えました。[W01、P01]
角田は、道長の日記の寛弘4年正月二十九日の条に、藤原香子が掌侍に任じられたと書かれている点に注目しました。さらに角田は、『紫式部日記』に出てくる女房たちの序列などから、紫式部もこのころ掌侍の一人だったとみて、藤原香子が紫式部である可能性が高いとしました。[P01]
ただし角田自身は、この説を断定ではなく推量にとどまると書いています。のちの著書でも、問題を決定的に解決するきめ手は見いだされていない、と述べました。[W01]
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03原典の日記には、何と書いてある?
根拠とされる日記は二つあります。一つは道長の『御堂関白記』です。国立公文書館が公開する写本の画像で寛弘4年正月二十九日の条を開くと、「有掌侍召、以藤香子、可被任者」と読めます。「藤」は藤原の略で、藤香子は藤原香子を指すとされています。[S01、I01]
もう一つは、藤原行成の日記『権記』です。二月五日の条に、女官の除目(任命)を行ったことが書かれ、小さな字の注記で、先月二十九日に掌侍の藤原香子を任じたと記されています。同じ人事が、別の人の日記にも出てくるわけです。[S02、I02]
どちらの条にも、「紫式部」も「藤式部」も出てきません。日記から分かるのは、寛弘4年に香子という名の掌侍が任じられたことまでです。その人が『源氏物語』の作者かどうかは、日記の外から推理するしかありません。
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04香子説に反対する研究では、何を問題にしていた?
反対する研究が問題にしたのは、日記に出る女官と紫式部を、同じ人だとみなせるかどうかです。[P01]
たとえば、掌侍の人数や女房たちの序列だけで、香子を紫式部に絞り込めるのでしょうか。道長が書いたのは、中宮彰子に仕える女性の人事なのでしょうか。そもそも紫式部は、彰子に仕える女房ではあっても、内裏の女官である掌侍ではなかったのではないか。こうした疑問が出されています。[P01]
「香子という女官がいた」ことと、「香子が紫式部だった」ことの間には、なお確かめるべき隔たりがあるのです。辞典も、本名は不詳、あるいは香子説には疑問があるという慎重な書き方をしています。[W01]
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05それでも「香子」説が消えないのは?
賛成する側もいます。萩谷朴は『紫式部日記全注釈』で、角田説には捨てがたいところがあると述べました。[W01]
2022年に論文を書いた上原作和も、香子説を支持しています。上原は、『紫式部日記』に出てくる中宮女房の掌侍のうち、名前が特定されていないのは「式部」だけなので、それが香子だと論じました。女房の身分については、吉川真司の研究を支えにしています。[P01]
ただし、これも日記に「香子は紫式部」と書かれているわけではなく、複数の記述を組み合わせた解釈です。名前を結びつける理由はありますが、それだけで本名が確定するわけではありません。[P01]
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06結局、本名は分からないの?
いまのところ、紫式部の本名は確定していません。香子説は今も取り上げられる一説ですが、2023年刊の『紫式部伝』は、萩谷が追認したほかは、多くが否定論だったと整理しています。[W01]
「本名は藤原香子」と言い切る話にも、「まひろ」という名についても、同時代の記録は見つかっていません。確かなのは、道長と行成の日記に香子という掌侍が出てくることと、その人を紫式部に結びつけるかどうかで研究者の意見が割れていることです。
この一行を、原文で読んでみましょう。
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『御堂関白記』寛弘4年(1007)正月二十九日の条
作者:藤原道長
原文(該当部分)
有掌侍召、以藤香子、可被任者
現代語訳
掌侍の補任のことがあり、藤香子を任命せよとのことだった。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
原典の掲載ページを開く ↗
出典・訳について
『御堂関白記』寛弘4年(1007)正月二十九日の条
本文・目次へ戻る ↑表記・訳の注記
句読点は翻刻による。「藤」は藤原の略とされる。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。「召」の解釈に自信が弱いため、記事本文では大意だけを示した。
「藤香子」の「藤」は藤原の略で、貴族の姓を一字で書く書き方です。「掌侍」は女官の役職名、「可被任」は「任じられるべきだ」という意味です。島田良二は、この記事が伝聞の形であることに注目しました。
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出典と原典の画像
元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。
ほかの一次資料
『権記』寛弘4年(1007)二月五日の条
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原文(該当部分)
五日壬申、参内、源中納言、召中務少輔孝明、給女官除目、去廿九日任掌侍藤原香子
現代語訳
五日、壬申。参内する。源中納言が中務少輔の孝明を召し、女官の除目を授けた。去る二十九日、掌侍に藤原香子を任じたもの。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
出典・訳について
- 作品名:『権記』寛弘4年(1007)二月五日の条
- 著者・編者:藤原行成
- 巻・章・話番号:寛弘4年の冊
- 採用した版・底本:国立公文書館 内閣文庫 和書 160-0198『権記』(校正本、松山久松家旧蔵の写本)の第10冊(背に「寛弘四年」とある冊)
- 翻刻提供元・URL:翻刻なし。雲亭が画像から読んだ。萩谷朴『紫式部日記全注釈 下巻』の引用(レファレンス協同データベースが紹介)と文言が合う
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:国立公文書館デジタルアーカイブ、第10冊の画像7コマ目(全35コマ)、右頁の左端寄り
- 引用・再利用条件:S01と同じ。https://www.digital.archives.go.jp/secondary-use
表記・訳の注記
句読点は雲亭が補った。「去廿九日」から後ろは小さな字の注記(割注)で、「掌」と「侍」の間は写本で朱の「侍」が補われている。「藤原」は崩し字で、字形は読み切れていないが、萩谷の引用と合うため「藤原」とした。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。
原典の画像を開く
画像 I01 『御堂関白記』寛弘4年の冊
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国立公文書館(内閣文庫) / 写本、紅葉山文庫旧蔵、請求番号 160-0169(冊次0003)。道長の自筆本ではない / 画像9コマ目(全44コマ)、左頁の右から3〜4列目
資料の書誌 | 該当箇所の画像
画像 I02 『権記』寛弘4年の冊(第10冊)
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国立公文書館(内閣文庫) / 写本、校正本、松山久松家旧蔵、請求番号 160-0198(冊次0010) / 画像7コマ目(全35コマ)、右頁の左端寄り、二月五日の条
資料の書誌 | 該当箇所の画像
参考にした研究・関連文献
論文 P01 ある紫式部伝・第二稿:本名・職階・没年説の現在
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上原作和 / 古代文学研究 第二次 / 31号、2022年 / 15〜29頁
記事で参照した文献
書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF
論文以外の参考資料
解釈と、まだ確かめられていないこと
『御堂関白記』は藤原道長、『権記』は藤原行成の日記で、どちらも同時代の漢文の日記です。ここで読んだのは国立公文書館が公開する写本の画像で、道長の自筆本そのものではありません。反対論と賛成論の紹介は、上原作和の2022年の論文が整理した内容に基づいています。上原自身が香子説を支持する立場です。「香子」の読みも決まっておらず、角田は「かほりこ」または「たかこ」と読んだのだろうと推定しました。 香子説は角田文衛が1963年に発表しました。旧稿で第5節に置いた増田繁夫の批判は、上原作和の別の初婚説に対するものでした。掌侍説への反論と混同しないため、読者向け本文から外しています。
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