事件と人物 / 平安
紫式部、日記で清少納言をガチ批判
2026年10月17日更新
『源氏物語』の紫式部と、『枕草子』の清少納言。二人が宮中で競い合う姿を想像すると華やかですが、実際の関係はどうだったのでしょう。紫式部の日記には、清少納言へのかなり手厳しい言葉が残っています。
画像はイメージです『紫式部日記』の途中には、手紙のような文体で、名のある女性たちを一人ずつ評する部分があります。和泉式部は、手紙は面白く書くが感心できない面もあり、歌は見事でも本格的な歌詠みとは思えない人。赤染衛門は、こちらが気後れするほどの詠みぶりの人。紫式部はそう評し、そのあとに清少納言の名を出します。この一文は、顔を合わせてぶつかった相手への言葉なのでしょうか。
01二人の作家と、一方からの辛口評
紫式部と清少納言は、どちらも平安時代中期の宮中に仕えた女性です。一条天皇の時代に、定子の後宮に清少納言が、彰子の後宮に紫式部が仕えました。[W01]
二人が互いをどう思っていたのかを考える手がかりは、紫式部が日記に書いた清少納言への評です。ただし、これは二人のやり取りを記したものではありません。
なお、「紫式部」と「清少納言」は本名ではなく、女房として仕えるときの呼び名です。「式部」は、父が式部大丞という役職にあったことによるのではないか、とされています。[W02]
それでは、その評の原文と、二人の仕えた時期を確かめてみます。
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02日記には、清少納言のことが何と書いてある?
手紙の形で人物を評する部分は、消息文と呼ばれます。和泉式部と赤染衛門の評に続いて、清少納言が出てきます。渋谷栄一校訂の本文で調べると、日記の中で清少納言の名が出てくるのはこの一か所だけです。[S01、S02、I01]
評は「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」と書き出します。ここでは試みに、「得意顔で、たいそうなふるまいをした人」と訳しておきます。続けて、あれほど利口ぶって漢字を書き散らしているが、よく見るとまだ足りないところが多い、という内容です。[S01、S02]
さらに、人と違っていようと思い込んでいる人は、きっと見劣りがして、行く末もろくなことにならない、と書きます。風流ぶる人は、つまらない折にもしみじみと感じ入り、おもしろいことを見逃さないうちに、自然と軽薄な様子になってしまう。そうなった人の末路が、よいはずはない、というのです。[S01]
清少納言と話した場面や、言い争った場面は書かれていません。なぜこう評したのかも、日記は説明しません。
なお、写本をもとにした版ごとに字句が少し違い、「まだいと足らぬこと」と読む本も、「まだいと堪へぬこと」と読む本もあります。足らぬは不足している、堪へぬは堪能でない、という意味で、どちらも未熟だという評になります。[S01、S02、W03、I02]
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03宮仕えの時期は、重なっていない
国史大辞典によると、清少納言が定子のもとに出仕したのは正暦3年(992)か4年です。定子は長保2年(1000)に亡くなりました。その後の清少納言については、確かな史料がなく、動静は分からないとされています。[W01]
一方、紫式部が彰子に召し出されたのは寛弘2年(1005)12月29日です。宮崎荘平は著書で、清少納言は紫式部が出仕する数年前にすでに宮仕えを辞していたとみられるので、出仕先で二人が顔を合わせることはなかったはずだ、と述べています。[W01]
つまり、日記の評は、同じ職場で毎日顔を合わせた相手への悪口ではなさそうです。清少納言の側にも、紫式部について書いたものは見つかりません。清少納言は紫式部について何の言及も残していない、と研究者の張培華も指摘しています。[P01]
紫式部が、どこで清少納言の様子や書いたものを知ったのかは、日記に書かれていません。
宮仕えの時期が重ならないことは、生涯に一度も会わなかったという証明ではありません。勤務先での関係と、それ以外の交流の可能性は分けて考える必要があります。
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04紫式部も、漢字では陰口を言われていた
同じ日記の少しあとに、紫式部自身の話が出てきます。自分の部屋の古い書物を引き出して眺めていると、女房たちが集まって、あなた様はこんなふうだからお幸せが少ないのです、どんな女が漢籍を読みますか、と陰口を言うのが聞こえた、というのです。[S03]
これとは別に、紫式部は、男であっても学を鼻にかける人は感心されない、という評判を聞いたそうです。それを聞いてから、漢字の「一」という字さえ書かないようにした、と書いています。主人の彰子には、人目のないときにこっそり『楽府』という書物を二巻教えたそうです。漢字の力を人に知られたくなかった紫式部が、清少納言には「漢字を書き散らして」と書いたのです。[S03、S01]
一日記に書かれていること
清少納言は得意顔で、漢字を書き散らしても未熟なところが多い、という評。
二日記に書かれていないこと
二人が会った場面、言い争った場面、そう評した理由の説明。
三清少納言の側の記録
紫式部についての言及は残っていない。
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05批判は本当、バトルの記録は見つからない
ここまでで確かめられたのは、紫式部が日記で清少納言を厳しく評したことです。一方で、宮仕えの時期は重ならなかったとみられます。生涯の交流については、この日記の一節からは分かりません。[S01、W01]
批評が何を指すのかは、研究でも読み方が分かれます。張培華は、「真名書きちらし」を、清少納言が書き写した詩句の字が不体裁だったという書道の面から読みました。岡田貴憲は、周辺の作品から作られた人物像が日記の解釈に影響してきたと指摘し、逆に、日記の批評が清少納言の作品の読み方に持ち込まれているおそれもある、と述べています。[P01、P02]
「壮絶なバトル」という語られ方を裏づける記録は、見つかっていません。日記に残っているのは、紫式部の側から見た清少納言への評です。その言葉づかいを、原文で読んでみましょう。
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『紫式部日記』消息文の清少納言評
作者:紫式部
原文(該当部分)
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
現代語訳
清少納言という人は、得意顔で、たいそうなふるまいをした人です。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしていますけれど、よく見ると、まだ足りないところがたくさんあります。このように、人と違っていようと思い込んでいる人は、きっと見劣りがして、行く末もひどいことばかりですので、風流ぶるようになった人は、ひどく寂しくつまらない折にも、しみじみとした情趣に進んで感じ入り、おもしろいことも見逃さないうちに、自然とよくない、浮ついた様子にもなってしまうのでしょう。そのように浮ついてしまった人の末路が、どうしてよいことがありましょうか。
本文翻刻
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出典・訳について
『紫式部日記』消息文の清少納言評
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- 作品名:『紫式部日記』消息文の清少納言評
- 著者・編者:紫式部
- 巻・章・話番号:消息文の部分。和泉式部の評、丹波守の北の方(赤染衛門)の評に続く段落
- 採用した版・底本:渋谷栄一校訂の電子テキスト(ウィキソース収録)。底本は未確認
- 翻刻提供元・URL:ウィキソース「紫式部日記 (渋谷栄一校訂)」 https://ja.wikisource.org/wiki/紫式部日記_(渋谷栄一校訂)
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:頁なし(電子テキスト)。2026-10-09取得の版(oldid=161026)で確認
- 引用・再利用条件:ウィキソースのクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンス。ページ下部のリンク先は CC BY-SA 4.0(deed.ja)、ページ内の表記は「表示-継承 3.0 非移植」。2026-10-09取得、版 oldid=161026(最終更新 2020-07-26)。出典の表示が必要
表記・訳の注記
現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。「いみじう」は程度のはなはだしさを表し、よい意味にも悪い意味にも使われるため、「たいそうなふるまい」と訳した。
「したり顔」は、得意そうな顔つきのことです。「真名書き散らして」は、漢字をあちこちに書き並べて、という意味です。
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出典と原典の画像
元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。
ほかの一次資料
『紫式部日記』消息文の清少納言評(同じ箇所の別版)
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原文(該当部分)
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち、眞字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬこと多かり。かく人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、
現代語訳
清少納言という人は、得意顔で、たいそうなふるまいをした人です。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしていますけれど、よく見ると、まだ十分でないところがたくさんあります。このように、人と違っていようと思っている人は、きっと見劣りがして、行く末もひどいことばかりですので、
本文翻刻
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出典・訳について
- 作品名:『紫式部日記』消息文の清少納言評(同じ箇所の別版)
- 著者・編者:紫式部。池田亀鑑 校訂
- 巻・章・話番号:消息文の部分
- 採用した版・底本:岩波文庫教科書版27『紫式部日記』、岩波書店、昭和8年(1933)。底本は、明暦2年(1656)に伏見宮邦高親王自筆本で書写したとの奥書をもつ本を天和2年(1682)に転写した本(凡例による)
- 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション pid 1052443、https://dl.ndl.go.jp/pid/1052443/1/34
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:64〜65頁(この箇所は65頁)、34コマ
- 引用・再利用条件:国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開。利用条件ページのURLは未記録
表記・訳の注記
S01と同じ箇所。S01との違いは、「真名」と「眞字」、「足らぬ」と「堪へぬ」、「異ならむ」と「異ならん」など。画像を目で読んで書き写した。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。
『紫式部日記』消息文のうち、紫式部自身が漢籍を隠した記事
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原文(該当部分)
「御前はかくおはすれば、御幸ひは少なきなり。なでふ女か真名書は読む。昔は経読むをだに人は制しき。」
一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり。
現代語訳
「あなた様はこんなふうでいらっしゃるから、お幸せが少ないのです。どういう女が漢籍を読みますか。昔は、女がお経を読むことさえ、人は止めたものです。」
「一」という文字さえ書かないようにしていて、たいそう不器用で、あきれるほどです。
本文翻刻
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出典・訳について
- 作品名:『紫式部日記』消息文のうち、紫式部自身が漢籍を隠した記事
- 著者・編者:紫式部
- 巻・章・話番号:消息文の後半。「日本紀の御局」の話のあとの部分と、その前の「御前はかくおはすれば」の部分
- 採用した版・底本:渋谷栄一校訂の電子テキスト(ウィキソース収録)。底本は未確認
- 翻刻提供元・URL:ウィキソース「紫式部日記 (渋谷栄一校訂)」 https://ja.wikisource.org/wiki/紫式部日記_(渋谷栄一校訂)
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:頁なし(電子テキスト)
- 引用・再利用条件:S01と同じ(表示-継承ライセンス。ページ下部は CC BY-SA 4.0、ページ内は 3.0 非移植。2026-10-09取得、oldid=161026)
表記・訳の注記
前半は、紫式部が古い書物を引き出して見ているのを、女房たちが陰で言うのを聞いた、という文脈。「御前」は、話しかけられている紫式部を指すと読んで訳した。後半は、「男でさえ学を誇る人は感心されない」という評判を聞いたあとの記事。「彰子に『楽府』という書物を二巻教えた」記事は引用せず、本文で要約した。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。
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画像 I01 『紫式部日記』(岩波文庫教科書版27)
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国立国会図書館 / 池田亀鑑校訂、岩波書店、1933年。活字本 / 64〜65頁、34コマ
資料の書誌 | 該当箇所の画像
画像 I02 『紫式部日記 校註』
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国立国会図書館 / 関根正直著、明治書院、1931年。活字本。消息文の見出しに「同僚宮女の批評」とある / 102〜103頁、57コマ
資料の書誌 | 該当箇所の画像
参考にした研究・関連文献
論文 P01 『紫式部日記』における「真名書きちらし」考:清少納言批評を中心に
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張培華 / 国文学研究資料館紀要 文学研究篇 / 45号、2019年 / 93〜121頁
記事で参照した文献
書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF
論文 P02 『紫式部日記』三才女批評考
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岡田貴憲 / 語文研究(九州大学) / 136号、2023年12月 / 1〜13頁
記事で参照した文献
書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF
論文以外の参考資料
解釈と、まだ確かめられていないこと
『紫式部日記』の消息文は、日記の中で人物評を手紙のように書き連ねた部分で、批評の理由や宛先は本文に書かれていません。日記の字句は版によって少し異なり、この記事では二つの版を照らし合わせて確かめました。二人の宮仕えの時期は、事典などの記述にもとづく整理で、清少納言が宮仕えをやめた正確な時期を示す史料があるわけではありません。「真名書きちらし」が何を指すかについては、研究者のあいだでも解釈が分かれています。
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