旅と歌枕 / 平安・鎌倉
能因法師は白河の関へ行かずに、あの歌を詠んだ?
2026年10月17日更新
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」。旅の名歌として知られるこの歌には、作者の能因法師が、本当は都に長くこもって日に焼け、陸奥帰りのふりをして発表した、という話が付いています。この話は、どこまで確かめられるのでしょうか。
AI生成によるイメージです春の霞とともに都を出たのに、白河の関にはもう秋風が吹いている。旅の時間を一首に収めたこの歌について、『古今著聞集』は次のように語ります。能因は旅に出ないまま長くこもり、肌の色を黒く日に当ててから、「陸奥の方へ修行に出た折に詠んだ」と披露した、というのです。これが事実なら、歌の旅は作り話だったことになります。同じ歌を扱う別の資料は、何と書いているのでしょうか。
01「旅の名歌は、家で詠まれた」という話
13世紀半ばに成立した『古今著聞集』の第171話は、能因を「いたれる数寄者」と呼びます。数寄者とは、和歌などの風雅の道に深く打ち込む人のことです。この話によると、能因は「都をば」の歌を詠みましたが、都にいたままこの歌を発表するのは心残りだと考えました。[S01、I01]
そこで人に知られないよう、長くこもり、日に当たって肌の色を黒くしました。その後で「陸奥の方へ修行のついでに詠んだ」と披露した、というのです。[S01]
同じ話は『十訓抄』にもあり、こちらは肌を「日にあぶる」と書きます。二つの本は、ほぼ同じ文で語っています。[S02]
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02歌集の前書きは、旅の歌だと言う
『後拾遺和歌集』の巻九に載るこの歌を、事典は、能因が陸奥へ下った初度の旅の作と説明します。同集の詞書(歌の前に置かれた説明文)として、「みちのくにゝまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける」を引く解説サイトもあります。[W01、W02、W06]
能因自身の家集『能因法師集』にも、「二年の春、陸奥国へちょっと下るというので、白河の関に泊まって」という趣旨の詞書が付いています。どちらも歌を旅の途中の作とする点で、著聞集の話とは食い違います。[S05]
ただし、能因が自分で編んだとされる家集の詞書は、能因の側の説明です。第三者が旅を確かめた記録ではありません。[W03]
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03古い出どころの『袋草紙』は何と書く?
この話の古い出どころとして、『袋草紙』に短い記事があります。藤原清輔が1150年代に書いた歌学書で、現存本には後の書き足しも含まれると考えられています。能因の没後100年ほどあとの本です。[W05]
その巻三に、竹田大夫国行という人が陸奥へ下ったときの話があります。国行は白河の関を過ぎる日、とくに装束を整えて向かった、という話です。理由を聞かれると、「古曾部入道が『秋風ぞ吹く白河の関』と詠んだ所を、どうして普段着のまま通れようか」と答えた、といいます。[S04、I02]
古曾部入道は能因のことです。袋草紙はこれを「殊勝の事か」(感心なことだろうか)と書いており、この歌が白河の関という場所と結び付いて語られていたことが分かります。[S04、W07]
この話に続いて、能因の記事が置かれています。能因は実際には陸奥へ下らず、この歌を詠むために人目を避けて籠もり、下ったという風聞を立てた、と書かれています。ただし最初の文は「云々」で結ばれ、伝え聞いた話の形です。[S03、I02]
記事はさらに、能因が二度下ったという話があり、そのうち一度は本当ではないか、と続けます。能因が八十島記を書いたことにも触れます。この箇所に、日焼けの話は出てきません。[S03]
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04能因が陸奥へ行った、と言える材料は?
事典類は、能因の旅を次のように説明します。能因は各地を旅し、その多くは知り合いの国司を頼ったものでした。陸奥へは1025年(万寿2年)以後に二度下り、馬の取引に関わる旅だったかもしれない、とも言われます。[W01、W02]
後拾遺和歌集の巻九の歌は、その初めの旅で詠まれた秀歌だと、事典は述べます。同じ事典は、家集に「想像奥州十首」という作品があることも挙げ、著聞集や十訓抄の話はそうした作品に関わる説話かもしれない、と推し量っています。[W02]
事典の説明がどの記録に基づくのかは、短い項目に書かれていません。ここで見た家集の詞書は能因自身の説明であり、勅撰集の歌についても、事典は拠り所を示していません。能因が陸奥にいた日を第三者がその場で書き留めた記録は、ここで見た資料のどれにも載っていないのです。[W01、W02、S05]
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05どちらが事実かは、決められない
旅の歌ではないと語るのは、能因の没後100年ほどあとの『袋草紙』と、同じ話を日焼けまで語る『十訓抄』『古今著聞集』です。旅の歌だとするのは、能因が編んだとされる家集と、後拾遺和歌集の歌を初度の旅の作と説明する事典です。袋草紙自身も、行かなかったという話の直後に、二度下ったという話と、一度は本当ではないかという留保を並べています。[S03]
そのため、この歌が現地で詠まれたかどうかを決める資料は、ここで見たものの中にありません。袋草紙のこの箇所には日焼けが出ず、十訓抄と著聞集では日焼けまで語られます。話に細部が付け加わった可能性はありますが、それも資料からは断定できません。[S01、S02、S03]
『古今著聞集』は、この話を、雨乞いの歌が雨を降らせた話に続けて載せています。和歌の力と、和歌に打ち込む能因の姿を並べて語る話として読むこともできます。[S01]
この歌の訳が載る本を探した質問も、レファレンス協同データベースに残っています。回答には『コレクション日本歌人選』と『名歌名句大事典』が挙がっています。[W04]
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『古今著聞集』巻第五 和歌第六 第171話「能因入道伊予守実綱にともなひてかの国に下りたりけるに」
作者:橘成季 編
原文(該当部分)
能因はいたれる数寄者にてありければ、
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
と詠めるを、「都にありながらこの歌を出ださむこと念なし」と思ひて、人にも知られず、ひさしくこもり居て、色を黒く日に当りなして後、「陸奥の方へ修行のついでに詠みたり」とぞ披露し侍りける。
現代語訳
能因は、和歌の道にたいへん深く打ち込む人だったので、
都を春の霞とともに出発したのだが、いま白河の関には、もう秋風が吹いている。
と詠んだ歌を、「都にいたままこの歌を出すのは心残りだ」と考えた。そこで、人に知られないよう長くこもり、日に当たって肌を黒くしてから、「陸奥の方へ修行に出た折に詠んだ」と披露したという。
本文翻刻
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出典・訳について
『古今著聞集』巻第五 和歌第六 第171話「能因入道伊予守実綱にともなひてかの国に下りたりけるに」
本文・目次へ戻る ↑表記・訳の注記
括弧の読みを外した読みやすい原文。校訂本文の脚注番号は省いた。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲を経ていない。写本画像との校合は、雲亭では行っていない。同じ第171話の前半は三島の神に雨乞いの歌を奉る話であり、ここには引用しなかった。
「色を黒く日に当りなして」は「肌の色を黒く日に当てて」、「披露し侍りける」は「披露しました」という意味です。「陸奥の方へ修行のついでに詠みたり」は、能因が旅の歌に見せるために用意した言葉として、そのまま引用されています。『十訓抄』の「日にあぶりなして」と見比べると、同じ話が少しずつ違う言い方で伝わっていることが分かります。
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出典と原典の画像
元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。
ほかの一次資料
『十訓抄』第十 才芸を庶幾すべき事 10の10「能因入道伊予守実綱にともなひてかの国に下りたりけるに」
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原文(該当部分)
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
と詠めりけるを、「都にありながら、この歌を出ださん事、無念」と思ひて、人にも知られず、久しくこもり居て、色を黒く、日にあぶりなしてのち、「陸奥の方へ修行のついでに詠みたり」とぞ、披露しける。
現代語訳
「都を霞とともに出発したのだが、秋風が吹く白河の関よ」と詠んだのを、「都にいながらこの歌を出すのは無念だ」と思って、人にも知られず、長くこもり、肌の色を黒く日にあぶってから、「陸奥の方へ修行のついでに詠んだ」と披露した。
本文翻刻
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出典・訳について
- 作品名:『十訓抄』第十 才芸を庶幾すべき事 10の10「能因入道伊予守実綱にともなひてかの国に下りたりけるに」
- 著者・編者:編者は確定していない
- 巻・章・話番号:第十 10の10
- 採用した版・底本:中川聡による宮内庁書陵部本『十訓抄』の校訂本文(やたがらすナビ)
- 翻刻提供元・URL:やたがらすナビ、https://yatanavi.org/text/jikkinsho/s_jikkinsho10-10
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:同ページの翻刻にある底本の丁の記号 k45〜k46。底本画像との照合はしていない
- 引用・再利用条件:同ページに CC BY-SA 4.0 の表示あり(確認日 2026-10-17)。引用は後半の一段のみ
表記・訳の注記
校訂本文の読み仮名と脚注番号は省いた。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。S01 との違いは、「日に当り」が「日にあぶり」になる点と、結びの敬語「侍り」がない点。
『袋草紙』巻三、能因の記事
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原文(該当部分)
能因實ニハ不下向奥州、為詠此歌窃ニ籠居シテ、下向奥州之由ヲ風聞云々、二度下向之由アリ、於一度者實歟、書八十嶋記ヲ
現代語訳
能因は実際には奥州へ下らず、この歌を詠むために、ひそかにこもって、奥州へ下ったという風聞を立てた、という。二度下ったという話がある。一度については本当であろうか。八十島記を書いた。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
出典・訳について
- 作品名:『袋草紙』巻三、能因の記事
- 著者・編者:藤原清輔
- 巻・章・話番号:巻三(柱に「袋巻三」)。見出しや章題は画像からは確かめていない
- 採用した版・底本:貞享2年(1685)京都 中川茂兵衛・中川弥兵衛刊の版本4冊。愛知県立大学図書館蔵(請求記号 911.2/1-4/660)の第3冊
- 翻刻提供元・URL:翻刻なし。雲亭(Claude)が画像から読んだ。愛知県立大学図書館のURLは本人確認待ちのため非表示
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:画像 102701017_0008 の左頁の終わりから、102701017_0009 の右頁の初めまで。丁の数は未特定
- 引用・再利用条件:同館は、画像の印刷とダウンロードを非営利目的に限り、無断転載・再配布を禁じ、リンクは自由(ページが同館のものだと明示すること、営利目的のリンクは不可)としている。利用条件は2026-10-17に確認。画像は載せず、URLも本人確認待ちのため非表示
表記・訳の注記
漢字とカタカナの交じる版本の本文で、返り点と送り仮名の小字は省き、句読点は雲亭が補った。「二度下向」は丁をまたいで続く。「窃ニ」と「實歟」の「歟」は画像で読んだが、小さな字のため判読に自信が持てない。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳であり、専門家の校閲は受けていない。「此歌」が能因の「都をば」の歌を指すという読みは、文脈による推定である。前後の記事は、全部は読み切っていない。
『袋草紙』巻三、竹田大夫国行の記事
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原文(該当部分)
竹田大夫國行ト云者、陸奥ニ下向之時、白川關スクル日ハ殊ニ装束ヒキツクロヒ、ムカフト云々。人問云、何等故哉。答云、古曾部入道ノ、秋風ソフク白河關ト讀レタル所ヲハ、イカテカケナリニテハ過ン云々。殊勝事歟。
現代語訳
竹田大夫国行という者が、陸奥へ下ったとき、白河の関を過ぎる日は、とくに装束を整えて向かった、という。人が「どういうわけか」と尋ねると、答えて言うには、「古曾部入道が『秋風ぞ吹く白河の関』と詠んだ所を、どうして普段着のままで過ぎようか」という。殊勝の事か(感心なことであろうか)。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
出典・訳について
- 作品名:『袋草紙』巻三、竹田大夫国行の記事
- 著者・編者:藤原清輔
- 巻・章・話番号:巻三(柱に「袋巻三」)。S03 の直前に続く記事で、直前の定頼卿の歌をめぐる記事と同じ段に書かれ、区切りの印は能因の記事の前にだけある
- 採用した版・底本:S03 と同じ(貞享2年〈1685〉刊、愛知県立大学図書館蔵、第3冊)
- 翻刻提供元・URL:翻刻なし。雲亭(Claude)が画像から読んだ。愛知県立大学図書館のURLは本人確認待ちのため非表示
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:画像 102701017_0008 の左頁の初め
- 引用・再利用条件:S03 と同じ。画像は載せず、リンクだけにする
表記・訳の注記
S03 と同じ版本から読んだ。「ヒキツクロヒ」に続く「ムカフト」は、画像0008を拡大して読んだ(「向かふ」に「と」が付いた形と読み、「向かう」と訳した)。「ケナリ」は「褻(け)なり」で、日常のふだん着の状態を指すと読んだ。「殊勝事歟」は「殊勝の事か」と読み、殊勝は感心なこと、の意。この記事は直前の定頼卿の歌をめぐる記事と同じ段に続けて書かれ、画像では区切りの印が能因の記事の前にだけ付いている。定頼卿の記事の説明は引用しない。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。
『能因法師集』巻中 101番歌の詞書と歌
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原文(該当部分)
二年の春みちのくににあからさまにくだるとて、しら河の関にやどりて
都をばかすみとともにたちしかど 秋風ぞ吹くしら河の関
現代語訳
二年の春、陸奥国へちょっと下るというので、白河の関に泊まって
都を春の霞とともに出発したのだが、いま白河の関には、もう秋風が吹いている。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
表記・訳の注記
県史の備考は「二年=万寿二年」とし、解説は万寿2年(1025)のころの出来事とする。この年次は県史の比定で、詞書そのものに年号は書かれていない。「あからさまに」は、ほんのしばらく、ちょっと、の意の古語。「二年」を万寿2年とする点は、この記事では県史の説明を紹介するだけにとどめた。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。
原典の画像を開く
画像 I01 『古今著聞集』(第171話の画像)
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宮内庁書陵部 / 書陵部本の写本。国書データベース(国文学研究資料館)掲載、書誌ID 100190287、全567コマ / 127コマ(やたがらすナビが示す位置。雲亭による画像との照合は行っていない)
資料の書誌 | 該当箇所の画像
画像 I02 『袋草紙』第3冊(巻三)
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愛知県立大学図書館(貴重書コレクション「和本の世界」) / 貞享2年(1685)京都 中川茂兵衛・中川弥兵衛刊の版本、全4冊。請求記号 911.2/1-4/660(遺編1巻は欠) / 画像 102701017_0008(国行の記事と能因の記事の初め)、102701017_0009(能因の記事の続き)
参考にした研究・関連文献
論文 P01 『奥の細道』と能因の「数奇」 白河の関で
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新間一美 / 台大日本語文研究 / 巻号は未確認、2015年 / 未確認
関連文献(本文未確認)
国文研の書誌
論文以外の参考資料
解釈と、まだ確かめられていないこと
『古今著聞集』と、ほぼ同じ話を載せる『十訓抄』は、能因の死後に編まれた説話集です。能因の言動の記録ではなく、歌人の人物像を語る話として読む必要があります。『袋草紙』の記事は、最初の文が「云々」で結ばれた伝聞の形です。能因が自分で編んだとされる家集の詞書は能因側の説明で、第三者の記録とは性質が異なります。事典類の説明は、典拠が項目の中に示されていません。関連する論文に、新間一美「『奥の細道』と能因の「数奇」 白河の関で」(2015年)があります。[P01]
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