雲亭 日本古典図書室

狐が憑いて神社が建ち、1か月で取り壊された?

江戸の神田明神の門の外に、ある日、小さな稲荷の祠が建ち、幟が何本も立ちました。きっかけは、14歳の奉公人に憑いた狐の頼みだったといいます。ところが祠は、寺社奉行の命令で1か月後に取り壊されました。だれが建て、だれが、なぜ壊させたのでしょうか。

江戸の町に建った定吉稲荷へ集まる人々と狐の影
AI生成によるイメージです

4月4日、神田明神の随身門の外に、小さな祠が建ちました。「定吉稲荷大明神」と書いた幟が、何本も風にはためいています。記事は、この稲荷の由来を不思議な話として書き留めています。祠はそれから1か月で姿を消しました。そのいきさつを、原文でたどります。

01狐が憑いたのは、14歳の奉公人だった

文政8年(1825)4月4日、神田明神の境内にある随身門の外、東の側に小さな祠が建ち、「定吉稲荷大明神」と書いた幟がたくさん立ちました。『兎園小説』の屋代弘賢は、その由来を書き留めています。話の始まりは、神田明神の神主柴崎家の家計をめぐる集まりでした。[S01、I01]

講中の人々が神主家の家計の世話をしようと、境内の茶屋に集まり、永富町の釘屋清左衛門の家でも会合を開きました。清左衛門が連れてきた年季奉公の定吉は14歳で、供待ちの間に居眠りをしているうちに、狐が憑きました。狐は座敷に出て、主人に「清左衛門」と呼びかけ、自分は明神の門を守る野狐だと名乗ります。[S01]

狐は、神主家の家計についてある者に不正があるから任せてはならない、と告げ、清左衛門は正直だからこの話をするのだと言いました。家に連れ帰ったあとも狐は離れず、野島屋敷のある人が10年ほど前に溺れかけたとき、明神の仰せで自分が助けたと言い出します。この溺れた話は、当人が深く隠して家族にも話していなかったことだったので、人々は狐の言葉を並ぶものがないほど信じたといいます。[S01]

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02祠の場所は、狐の頼みで決まった

狐は、明神の境内に祠を建ててくれれば自分は位を得られる、と頼みました。門の内側に建てようと言うと、自分は外を守るのだから門の外に、と答えます。それで随身門の外の今の場所に決まった、と記事は書いています。[S01]

ここで気になるのは、実際に祠を建てたのが誰かという点です。記事は、建てた人の名前を書いていません。のちに神主の柴崎大隅が寺社奉行の前で述べた言葉によると、この稲荷は初め町家の家の中に祭られていて、境内に移したいという志願のままに建てた祠で、願主がいたといいます。願主の名前は、この記事のどこにも出てきません。[S01]

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03狐は何を語り、何が評判になったのか

7日の夜、狐は今夜帰ると言い出します。その頃、稲葉丹後守に仕える医者の河原林春塘が訪ねてきて、思い立ったことが成就するかどうかを尋ねました。春塘が、神通力があるなら私の心の内を察して答えよと迫っても、狐は答えようとしません。春塘は、犬や猫には知り合いもあるが狐には見知った者がいない、と言い返し、言い争いになります。[S01]

講中が詫びて取りなすと、狐は一枚の紙を裂いて、五言四句の詩を書き、春塘に渡すよう言いました。詩は観音籤の第四十四番にあたる、と弘賢は書いています。弘賢はこの件を15日の夜に春塘から直接聞いたといい、「浮ついた話ではない」と念を押しています。[S01]

記事には、噂の広がり方を示す話もあります。小船町の天王の戸帳が盗まれて戻った件を、狐は自分の手立てで戻したと語りました。ある人が14日に稲荷へ参詣すると、並べて立てた幟が減っていて、富くじの願をかけて外れた人が白刃で切り裂いたのだと社家が語ります。そのうえ、切り裂いた人はその夜に急に具合が悪くなり、稲荷の罰だろうと詫びを頼みに来たそうです。[S01]

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04取り壊しを命じたのは寺社奉行だった

弘賢の署名のあとに、追記が付いています。5月3日、神主の柴崎大隅が寺社奉行の松平伯耆守に呼び出され、新規に勧請した稲荷の祠を速やかに取り壊すよう申し渡されました。勧請とは、神を新しい場所に迎えて祭ることです。[S01]

柴崎は、初めは町家の家の中で祭っていた稲荷を境内に移したいという志願のままに建てた祠だから、新規の勧請ではないと申し開きをします。さらに、自分が建てたのではなく願主がいて建てたものだとして、境内にもともとある稲荷に合わせて祭ることを願いましたが、どちらも許されませんでした。大社の神主に似合わない申し立てだと、いっそう叱られています。[S01]

寺社奉行は、今日のうちに壊せ、明日の四つ時(午前10時ごろ)には検使を送ると言いました。祠は5月4日に急いで取り壊されます。その日の夕暮れに跡を見ると、社のあった所の土を掘り、壊した材は焼き捨てたようだった、と記事は結ばれています。4月4日から5月4日まで、ちょうど1か月です。[S01]

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05急に流行した神は、ほかにもあったのか

江戸時代には、急に評判になって人が押し寄せ、やがて廃れる神仏がたびたび現れました。江戸の人々が「はやり神」と呼んだような神仏を、研究では流行神(はやりがみ)と呼びます。定吉稲荷もその一つと見られますが、史料が語るのは取り壊しまでの1か月で、その後の評判までは分かりません。

江戸の有名な例に、浅草田圃にあった柳川藩立花家の下屋敷の太郎稲荷があります。柴田光彦の紹介によると、享和3年(1803)に病気の流行とともに評判になり、翌年に頂点に達したあと、たちまち寂れました。その後も天保3年(1832)と慶応3年(1867)に再び流行したと書かれています。[P01]

柴田が紹介した『享和のはやり神』は、この騒ぎを記録した写本です。曲亭馬琴は、文政8年(1825)2月4日にこの本を借りて写し、持ち主の西原新左衛門は兎園会の同人でもありました。定吉稲荷の祠が建つ2か月前のことです。ただし、この写本が兎園会の人々の関心や定吉稲荷の記事と結びついていたかどうかは、書かれていません。[P01]

柴田が翻刻した書付には、屋敷の側が太郎稲荷への参詣をいったん差し止めたものの、人が集まり続けたためやむを得ず許した、という内容が読み取れます。翻刻には、札や御影の販売を取り締まる申渡しも、初午に大がかりな催しをしないよう町に命じた町触も、屋敷前の畦道での商いの差し止め(文化2年6月)もあり、太郎稲荷には役所や屋敷の規制が重ねて出されました。ただし太郎稲荷は、その後も再び流行しました。[P01]

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06記録が語らないことと、当時の見方

寺社奉行が祠を壊させた理由として記事に書かれているのは、新規の勧請だという一点だけです。祠の人気が高まったことや、正一位を願い出ていたことが関係したかどうかは、記事に書かれていません。続く第7話の冒頭には、定吉稲荷が吉田家に正一位を願い、許状が5月中に下りるはずだという話が出てきます。[S01、S02]

その第7話の末尾には、馬琴が「5月4日、定吉稲荷の祠が取り壊された」と書き添えています。寺社奉行から役人が来て処置させたという話で、詳しいことはよく聞いた日に記すとしたうえで、噂はさまざまだが、みな確かでないことばかりだと結びました。弘賢が確かだと念を押したのは、春塘から直接聞いた詩の話に限られます。馬琴が確かでないと書いたのは、取り壊しをめぐる噂です。[S01、S02]

狐憑きが本当にあったかどうかは、記事では論じられていません。記録に残っているのは、狐の言葉を伝える由来、神主の申し開き、寺社奉行が新規の勧請を理由に取り壊しを命じたこと、の三つです。その間に何があったのかは、原文を読むと少しだけ近づけます。

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『兎園小説』第五集 第6話「定吉稲荷」
作者:屋代弘賢(輪池堂)の披講。山崎美成の補い、末尾の追記を含む

原文(該当部分)

ことし〔文政八〕四月四日、神田明神境内隨身門の外東の方に小祠を建て、定吉稻荷大明神と題せし幟あまたゝてたり。

神田明神の神主柴崎大隅、寺社奉行松平伯耆守へ呼出され〔乙酉五月三日の事とぞ〕、新規勸請の稻荷祠すみやかにこぼち候へと申渡されたり。柴崎大隅かしこまり申して、さてかのいなり、はじめは町家にて家の内に祭りおきしを、俗家にては崇敬もとゞかざれば境内に移したき志願にまかせ建し所の祠なれば、新規勸請被申にもあらず。されば許容を仰ぐ所なりとこふ。

五月四日に俄にこぼちけるとぞ。その日黃昏にその跡を見しに、社の所を土をほりて、こぼちし材を燒すてけるさまなり。

現代語訳

今年〔文政8年〕4月4日、神田明神の境内、随身門の外の東側に小さな祠が建ち、「定吉稲荷大明神」と記した幟がたくさん立った。

神田明神の神主柴崎大隅は寺社奉行松平伯耆守に呼び出され〔乙酉5月3日のことだという〕、「新規に勧請した稲荷の祠を速やかに取り壊せ」と申し渡された。柴崎大隅はかしこまって、「さてあの稲荷は、はじめは町家で家の内に祭っていたものを、『俗家では崇敬が行き届かないので境内に移したい』という志願のままに建てた祠なので、新規の勧請と申されるものではありません。ですからお許しを仰ぐ次第です」と願った。

5月4日に急いで取り壊したそうだ。その日の夕暮れにその跡を見ると、社のあった所の土を掘って、壊した材を焼き捨てた様子だった。

本文翻刻

ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。

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出典・訳について

『兎園小説』第五集 第6話「定吉稲荷」

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  • 作品名:『兎園小説』第五集 第6話「定吉稲荷」
  • 著者・編者:屋代弘賢(輪池堂)の披講。山崎美成の補い、末尾の追記を含む
  • 巻・章・話番号:第五集 第6話
  • 採用した版・底本:昭和女子大学 桜山文庫本の写本(雲亭が画像から翻刻)。活字本系の私家版電子テキストは校合にだけ使った
  • 翻刻提供元・URL:翻刻は雲亭。写本画像は昭和女子大学の電子公開ページ https://www.ro-da.jp/swu/contents/3169
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:archiveCode 3169 の14カット目左ページから21カット目左ページ。観音籤の詩は17カット目左ページの末尾と18カット目右ページ。21カット目右ページに「乙酉五朔 輪池」の署名と「定吉稻荷尾」の見出し
  • 引用・再利用条件:写本画像の利用条件は未確認。画像は載せずリンクだけにする

表記・訳の注記

原文は昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持し、振り仮名を外した。三つの引用の間は省略している。「神田明神の神主」は写本の読みで、活字本系テキストは「神田明神の神は」とする。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。「定吉稻荷尾」以下の追記が、5月1日の署名のあとに書き加えられたものかどうかは、写本の配置から見た雲亭の推定である。

追記の「新規勧請」と「すみやかにこぼち候へ」に注目してください。「勧請」は神を迎えて祭ること、「こぼつ」は壊すことです。柴崎大隅が「新規勧請にもあらず」と申し開きをしても、「その陳状うけがたし」と退けられます。

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出典と原典の画像

元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。

ほかの一次資料

『兎園小説』第五集 第7話「稲荷正一位」

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原文(該当部分)

定吉稻荷正一位を願ひ、吉田家の許狀五月中には下るべしといへり。

文政八年五月四日、定吉稻荷の禿倉を破却せらる。此日寺社奉行より役人來て云々にはからはせしといふ。つまびらかなる事は猶よく聞たらん日にしるすべし。但しこの事前條に追書せられたれど、なほ具はらず。風聞はさまざまなれども、みなたしかならぬ事のみにこそ。

現代語訳

定吉稲荷は正一位を願い出て、吉田家の許状が5月中には下りるはずだという。

文政8年5月4日、定吉稲荷の祠が取り壊された。この日、寺社奉行から役人が来て、あれこれと処置させたという。詳しいことはさらによく聞いた日に記すことにする。ただしこのことは前条に追記されているが、まだ十分ではない。噂はさまざまだが、みな確かでないことばかりである。

本文翻刻

ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。

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出典・訳について
  • 作品名:『兎園小説』第五集 第7話「稲荷正一位」
  • 著者・編者:屋代弘賢(輪池堂)の披講。末尾は曲亭馬琴(著作堂)の識語
  • 巻・章・話番号:第五集 第7話
  • 採用した版・底本:昭和女子大学 桜山文庫本の写本(雲亭が画像から翻刻)
  • 翻刻提供元・URL:翻刻は雲亭。写本画像は https://www.ro-da.jp/swu/contents/3169
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:archiveCode 3169 の22カット目左ページから24カット目右ページ。馬琴の識語は24カット目右ページ
  • 引用・再利用条件:写本画像の利用条件は未確認。画像は載せずリンクだけにする

表記・訳の注記

原文は昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持した。二つの引用の間は省略している。「禿倉」は祠のこと。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

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画像 I01 『兎園小説』第五集(桜山文庫本)

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昭和女子大学 / 写本 / archiveCode 3169 の14カット目左ページから21カット目左ページ(第6話)

資料の書誌 | 該当箇所の画像

参考にした研究・関連文献

論文 P01 翻刻 享和のはやり神

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柴田光彦 / 早稲田大学図書館紀要 / 第15号、1974年3月 / 77〜103頁

記事で参照した文献

書誌・DOI 1 | 書誌・DOI 2 | 本文掲載ページ | 本文PDF

論文以外の参考資料

なし。

解釈と、まだ確かめられていないこと

『兎園小説』は文政8年に始まった兎園会の集まりで披露された話を集めた書物です。この記事は弘賢の署名のあとに追記が付く形になっていて、取り壊しの経緯は追記に書かれています。馬琴は、取り壊しをめぐる噂について、みな確かでないことばかりだと書き添えています。追記の中の柴崎大隅や寺社奉行の言葉は、書き手が伝え聞いた内容です。

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