雲亭 日本古典図書室

掘っても埋めても、翌日には元に戻る石がある?

掘っても掘っても底が見えず、埋めて帰ると翌日には元の姿で地上に立っている。東京の葛飾区に、そんな石の話が伝わっています。動画では、触ると祟りがある石として紹介されることがあります。では、江戸時代の人たちは、この石について何を書き残していたのでしょうか。

掘り返した跡に再び立つ石を見つめる江戸時代の村人たち
AI生成によるイメージです

畑の中に、高さ一尺ほどの丸い石が一つある。耕すのに邪魔だと思った持ち主が掘り出そうとしても、掘っても掘っても根が見えず、翌日行くと石は掘った分だけ地中に引っ込んでいた。「これは幸いだ」と埋めて帰ると、その次の日には石がひとりでに抜け出して、元のとおり地上に現れていた。江戸時代の随筆に載るこの場面は、誰がどこから聞いて書き留めたのでしょうか。

01「触ると祟る石」という噂は、どこから来た?

この石は、東京都葛飾区立石にある「立石様」の話として知られています。区の解説によると、立石という地名のもとになった石で、古墳時代に房総半島の南部から運ばれてきたといわれ、今は東京都の指定史跡です。[W01]

動画では、この石が「触ると祟りがある」「寒いと小さくなる」といった形で紹介されることがあります。では、江戸時代の記録には、どんな石として書かれているのでしょうか。まず、石が元に戻る話をそのまま載せた随筆から読みます。

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02『兎園小説』では、石は祟らず稲荷になった

『兎園小説』は、文政8年(1825)から江戸の好事家が集まった「兎園会」で披露された話を、滝沢馬琴が編んだ随筆集です。立石村の石の話は、同じ年の冬、十月朔日の集まりに出された第十集に載っています。[S01、I01]

記事はこの場面のあと、驚いた持ち主がただの石ではないと知り、石の上に祠を建てて稲荷として祀った、と続けます。一説には祠を建てず、石の周りに垣をしただけだ、という注記も付いています。もう一つ書かれているのは、石を見たいと頼む人があれば今も見せる、ということでした。祟りや病気の話は、この記事に出てきません。[S01]

記事の終わりには、話の出どころが書かれています。新右衛門は木母寺の境内に住む植木屋半右衛門の縁者で、半右衛門が詳しく聞いたと語った、という流れです。筆者は、新右衛門本人ではなく、この半右衛門の話を書き留めています。[S01]

筆者は、年月を「未詳」と注記し、村の名についても「思うに、この村にこの石があるので、古くから村の名にしたのだろう。なお調べるべきだ」と書き添えています。石が実際に掘った分だけ引っ込み、翌日に抜け出したかどうかは、この記録だけでは分かりません。[S01]

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03地誌に残る石は、寒さで欠け、夏に戻る

江戸時代の地誌にも、立石村の石が載っています。天保年間に出た『江戸名所図会』は、立石村の南蔵院という寺の境内にある石を挙げ、地上に出ているのはわずか一尺ほどだと記します。さらに添えられているのは、石の根が地中にどこまで入っているか分からない、という土地の人の言い伝えです。石は質が弱く、色は鞍馬石に似ており、寒さに当たると欠けるが春の暖かさで元に戻る、とも書かれています。[S02、I02]

江戸幕府の学問所が編んだ『新編武蔵風土記稿』は武蔵国の地誌で、立石村の稲荷社にも石があると記します。立石稲荷と呼ばれる稲荷社の神体は石で、直径は二尺ほど、高さは一尺ほど、形は伏せた牛に似て、下は土の中に埋まった状態です。この石は冬に欠け、夏になると元のとおりになるので、風土記稿は「活蘇石」と呼ぶべきものだろうと述べています。[S03、I03]

三つの記録とも、石の高さは一尺ほどです。ただし、『兎園小説』は元名主の畑の丸い石を、『新編武蔵風土記稿』は稲荷社の神体石を語っていて、同じ石かどうかは記録からは決められません。また、掘って埋めると戻るという話は、二つの地誌に出てきません。地誌に出てくる「元に戻る」は、冬に欠けて夏に戻る、という季節の話です。[S01、S02、S03]

一

『兎園小説』(1825年)

掘ると石が引っ込み、埋めると翌日に元のとおり現れる。持ち主は石を稲荷として祀る。祟りの語は出てこない。

二

『江戸名所図会』(天保年間)

南蔵院の境内にある。地上に出ているのは一尺ほどで、根は土地の人にも分からない。寒さで欠け、春に元のとおりになる。

三

『新編武蔵風土記稿』

稲荷社の神体石。直径二尺ほど、高さ一尺ほどで、形は伏せた牛に似る。下は土の中。冬に欠け、夏に元のとおりになる。

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04記録ごとに、石の置き場所も地名の由来も違う

三つの記録は、どれも立石村の石に触れていますが、同じ石を指すのかは書かれていません。『兎園小説』は元名主の畑、『江戸名所図会』は南蔵院の寺境、『新編武蔵風土記稿』は稲荷社の神体と書きます。地名のもとについては、風土記稿は村内の熊野社の神体の立石によるという土地の言い伝えを載せ、図会は南蔵院の石によって近くの村々の名になったと記します。[S01、S02、S03]

現在の案内には、石を掘ろうとした人たちが次々と病にかかったので、発掘が中止された、という言い伝えがあります。一方、『兎園小説』の記事では、持ち主は驚いて石を稲荷に祀るだけで、病の話はありません。祟りの話がいつから語られたかは、江戸時代の記録からは分かりません。[W02、S01]

掘っても根に届かない石の話は、ほかの土地にもあります。茨城県の鹿島神宮の案内は、徳川光圀が要石を七日七晩掘らせたが底に届かず、けが人も出て諦めた、という話を『黄門仁徳録』を挙げて紹介しています。[W03]

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05立石様は今も、葛飾の児童公園にある

『兎園小説』は、石を見たいと頼む人があれば今も見せる、と書いていました。立石様は今も残っています。区の案内は、立石様を地名のもとになった石とし、立石八丁目にある東京都指定史跡としています。[S01、W01]

葛飾区観光協会の案内によると、石は児童公園の中、鳥居の奥の囲いの中にあります。囲いをのぞき込む形で見学でき、いま地表に出ているのは数センチほどです。江戸の地誌は地上の高さを一尺ほどと書いていて、観光協会の案内とは別々の資料の記述です。[S02、W02]

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06「元に戻る」の話は、聞き書きの形で残った

『兎園小説』が伝えるのは、掘っても埋めても戻る石を、持ち主が驚いて稲荷に祀った、という縁者づての話でした。地誌が書く「元に戻る」は、冬に欠けて夏に戻る石の性質のことです。祟りの語は、これらの記事に出てきません。『兎園小説』の原文で、石が戻る場面を読んでみましょう。[S01、S02、S03]

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『兎園小説』第十集 第2話「立石村の立石」
作者:滝沢馬琴 編。この話の披講者は海棠庵(関思亮)。目録の題は「立石村の立石」で、本文に署名はない

原文(該当部分)

翌日ゆきて見れば、掘りしほど石ははるかに引入りて、壱尺ばかり出てあり。こは幸のことぞとて、そがまゝ埋みて歸りぬ。又その次の日ゆきて見れば、石はおのれと拔け出て、地上にあらはるゝこと元の如し。

現代語訳

翌日行って見ると、掘った分だけ石はずっと引っ込んで、一尺ほど出ているだけだった。「これは幸いだ」と、そのまま埋めて帰った。またその次の日行って見ると、石はひとりでに抜け出して、元のとおり地上に現れていた。

本文翻刻

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出典・訳について

『兎園小説』第十集 第2話「立石村の立石」

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  • 作品名:『兎園小説』第十集 第2話「立石村の立石」
  • 著者・編者:滝沢馬琴 編。この話の披講者は海棠庵(関思亮)。目録の題は「立石村の立石」で、本文に署名はない
  • 巻・章・話番号:第十集 第2話(文政8年〈1825〉冬十月朔日の集会)
  • 採用した版・底本:昭和女子大学図書館 桜山文庫蔵 写本『兎園小説 9-10集』(archiveCode 3171)。雲亭の本文ライブラリ(passage ID toen-10-02)の翻刻を採った
  • 翻刻提供元・URL:雲亭の翻刻。活字本系の私家版テキストと校合済み。画像 https://www.ro-da.jp/swu/contents/3171
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:3171の41カット目左ページから42カット目右ページの前半
  • 引用・再利用条件:昭和女子大学図書館の画像ページに「許諾不要:ただしコンテンツの利用については昭和女子大学図書館にお問い合わせください」とある。画像は載せず、リンクだけにする

表記・訳の注記

原文の字句は昭和女子大学本のとおりで、正字体を保ち、振り仮名は付けない。「高さ壱尺許」「新右衞門おもふやう」「掘出しのぞきなん」は写本の読みで、活字本系テキストとは字句が違う(校合の記録による)。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。引用は、石が引っ込み、埋めると戻る場面だけにした。祠、植木屋半右衛門からの聞き書き、筆者の按語は、記事本文で要約して紹介した。

「掘れども掘れども」は「掘っても掘っても」、「おのれと抜け出て」は「ひとりでに抜け出して」という意味です。持ち主が「こは幸のことぞ」と喜んだあとで、石が元のとおり地上に現れる流れに注目すると、場面の落差が分かります。「且驚き且あやしみ」は、驚きもし、怪しみもして、という意味で、持ち主が石を祀るきっかけになった反応です。最後の「なほ尋ぬべし」は、さらに調べるべきだ、という筆者の自分への注意書きです。

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出典と原典の画像

元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。

ほかの一次資料

『江戸名所図会』巻之七(揺光之部)「立石」

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原文(該当部分)

立石村五方山南藏院といへる眞言宗の寺境にあり。地上へ顯れたる所、纔に壹尺ばかりなり。土人相傳へて、石根地中に入る事其際をしらずといへり。石質弱にして、其色世間に稱する鞍馬石に似たり。此石、寒氣を帶ぶれば、こゝかしこ缺け損ず、されども春暖の氣を得る時は、又元の如しと云り。

現代語訳

立石村の五方山南蔵院という真言宗の寺の境内にある。地上に現れているのは、わずか一尺ほどである。土地の人が言い伝えるところでは、石の根が地中に入る、その果ては分からないという。石質は弱く、色は世間で鞍馬石と呼ぶものに似ている。この石は、寒気に当たるとあちこち欠け損じるが、春の暖かい気を得るときは、また元のとおりになるという。

本文翻刻

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出典・訳について
  • 作品名:『江戸名所図会』巻之七(揺光之部)「立石」
  • 著者・編者:斎藤幸雄 ほか著(長秋、月岑、雪旦の三代による)、武笠三 校
  • 巻・章・話番号:巻之七 揺光之部「立石」。『江戸名所図会』第4冊に収まる
  • 採用した版・底本:有朋堂文庫『江戸名所図会』第4、有朋堂書店、1927年(活字本)。原本は天保5〜7年(1834〜36)刊
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション pid 1174161、https://dl.ndl.go.jp/pid/1174161/1/131
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:253頁(131コマ)に書き出しがあり、挿絵の頁をはさんで263頁(136コマ)に続く
  • 引用・再利用条件:国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(公開範囲「一般」)。1927年刊の活字本

表記・訳の注記

旧字体は底本の字のまま。振り仮名と割注は省いた。同じ項の割注には「古は此石によりて近郷四五箇村の名となりしが、分郷となりしより後は、此村のみを立石とよべりとぞ」とあり、記事本文で要約して紹介した。253頁の末尾「壹尺ばか」と263頁の冒頭「りなり」は、挿絵の頁をはさんで続く。画像を目で見て文字を確かめた。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

『新編武蔵風土記稿』巻之二十三 葛飾郡之四「立石村」

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原文(該当部分)

立石村は村内熊野社の神體立石なるより起れる村名なりしと土人傳へり

稻荷社 立石稻荷と號す、これも神體石にて直徑二尺許、高さ一尺程、下は土中に埋り、其形伏牛に似たり、此石冬はかけ損し、夏に至れは元の如くなれり、かく寒にかけ暑に愈ると云は活蘇石なるへし

現代語訳

立石村は、村内の熊野社の神体である立石に由来する村名だと、土地の人が伝えている。

稲荷社。立石稲荷という。これも神体は石で、直径二尺ほど、高さ一尺ほど、下は土の中に埋まっていて、その形は伏せた牛に似ている。この石は冬に欠け損じ、夏になると元のとおりになる。このように寒さに欠け、暑さに癒えるというのは、活蘇石というべきものだろう。

本文翻刻

ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。

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出典・訳について
  • 作品名:『新編武蔵風土記稿』巻之二十三 葛飾郡之四「立石村」
  • 著者・編者:昌平坂学問所地理局の編(林述斎、間宮士信ら)。底本は蘆田伊人 編
  • 巻・章・話番号:巻之二十三 葛飾郡之四、立石村の項。村名の記述と、稲荷社の項
  • 採用した版・底本:『大日本地誌大系』第6巻(新編武蔵風土記稿2)、雄山閣。叢書の刊行は昭和4〜8年(1929〜33)
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション pid 1214842、https://dl.ndl.go.jp/pid/1214842/1/22
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:29頁(22コマ)の下段から30頁(23コマ)の右上
  • 引用・再利用条件:国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(公開範囲「一般」)。活字本

表記・訳の注記

2か所の引用を空行で分けた。濁点は底本のとおり省かれている(「至れは」「なるへし」)。稲荷社の項は29頁の末尾から30頁の冒頭へ続く。画像を目で見て文字を確かめた。「かけ損し」は欠け損じの意と解した。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。

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画像 I01 『兎園小説 9-10集』(第十集 第2話「立石村の立石」を収める)

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昭和女子大学図書館 桜山文庫 / 写本14冊、袋綴じ、帙入り。滝沢馬琴 編。書写者は不明 / 3171の41カット目左ページから42カット目右ページの前半

資料の書誌 | 該当箇所の画像

画像 I02 『江戸名所図会』巻之七「立石」(有朋堂文庫『江戸名所図会』第4)

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国立国会図書館 / 有朋堂書店、1927年。活字本で、原本の画像ではない。263頁の向かいの頁に、立石村の挿絵がある / 253頁(131コマ)、263頁(136コマ)

資料の書誌 | 該当箇所の画像 1 | 該当箇所の画像 2

画像 I03 『大日本地誌大系』第6巻(『新編武蔵風土記稿』巻之二十三 葛飾郡之四を収める)

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国立国会図書館 / 雄山閣。活字本 / 29頁(22コマ)、30頁(23コマ)

資料の書誌 | 該当箇所の画像 1 | 該当箇所の画像 2

参考にした研究・関連文献

論文以外の参考資料

解釈と、まだ確かめられていないこと

『兎園小説』の記事は、筆者が植木屋から聞いた話を書き留めた聞き書きで、筆者が現場で石を見たかどうかは記されていません。『江戸名所図会』と『新編武蔵風土記稿』は、土地の様子を記した地誌です。この記事で取り上げた三つの記録は、いずれも石の高さを一尺ほどとしますが、石のあった場所や地名の由来が記録ごとに違い、同じ石を指すのかは記録から決められません。現在の案内にある祟りの話が、江戸時代からあったかどうかは、これらの記録からは分かりません。

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